今宵、エリート将校とかりそめの契りを
名取家の敷地を出てからも、何度も門を振り返るほど意識を張り巡らせていたが、銀座に辿り着いた途端、ホッとして気が緩んでしまった。


(今日はたまたま見張られてなかったのかしら? 昨夜総士さんが襲われたばかりだというのに、ちょっと呑気な気が……)


さすがに不思議ではあったが、今の琴にはありがたいことだ。
買い物客でごった返す百貨店の前を通り、琴は路面電車の乗り場に向かった。
短い車体がガタガタと滑り込んでくるのを見て、自分を奮い立たせる。


琴が目指す先は、浅草にある正一の実家、上木呉服商だ。
正一は普段軍の兵舎で生活していて、そこに行っても門前払いされるだけ。
だから佐和子の家に行って、彼に連絡を取ってもらおうと思った。
家業を営む佐和子の家には、電話がある。
上手く繋がれば、夕方までに名取家に戻ることは十分可能だ。


平日の昼前だというのに、路面電車の車内はわりと混雑している。
琴は手摺りに掴まり、悪路を通る際の横揺れに耐えながら、車窓の風景が繁華街から下町に移りゆくのを見つめた。


数年前に大きな橋が架けられた川が見えてきたら、佐和子の家までもう少し。
琴は手摺りを握る手に力を込め、再び緊張感を募らせた。
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