やく束は守もります

▲９手 小春日

残暑という言葉とあまり縁なく育った香月にとって、東京の九月は衝撃的だった。
地元との気温差は5℃もあるし、日差しが当たると体感温度はほとんど夏。
小春日和などという生易しい季節ではなかった。

家を出るとき、少し肌寒くて着てきた長袖が、汗ばんだ肌にまとわりついて苦しい。
それでも指定されたカフェに入ると冷房が強く、今度は濡れた背中がぞくぞくと震えた。


『お話したいことがあるので、お時間をいただけませんか？』

初めて自分から送ったメッセージは、文字さえ震えているような気がした。
梨田は拒否するような人ではない。
それはわかっていても、30分後に返信があるまで、電話を握りしめ続けていた。

社員やアルバイトに頭を下げて、無理にもらった休みを、たった一言のために使う。

あの冷たい夜の中にしまい込んだ曖昧な愛情は、時を経て、単純で俗っぽい〈恋〉に変質してしまった。
どんなに美しいままとどめたいと願っても、醜く手を伸ばしてしまうような。
欲しいものを欲しいと言った経験がない香月には、願うことさえ罪のように重い感情だった。


「ごめん。遅くなった」

あの電話のとき冷たい声を放った梨田は、変わらない自然体で香月の前に現れた。
走って来たのか、Tシャツは汗の染みで色を濃くしていた。
それでも冷房が寒かったようで、お水を持ってきた店員さんにホットコーヒーを注文して、そのまま静かに座っている。

店員さんがコーヒーを運んでくるまでの数分。
香月は何も言えなかったけれど、梨田も何も言わなかった。
黙って待つことに慣れている梨田は、ほとんど動くこともせず、時間をもて余す風でもなく、ただそこにいた。

何日も前から、新幹線の中で、そして梨田に会うまで、ずっと考えても、香月には正解がわからなかった。
わからないなら、一番強い手を選ぶ。
梨田が『強気過ぎる』と言った、香月の本質だ。

「お待たせ致しました」

コーヒーが運ばれてきて、「どうも」と梨田は会釈した。
甘いものが苦手な梨田は、当然そのまま口に運ぶ。

「好きです」

カップに添えられていた梨田の手が、ビクッと跳ねた。

「棋士としてとか、男の人としてとか、ぐちゃぐちゃでよくわからないけど、とにかく・・・」

消え入るような小声で最後にもう一度、

「好きです」

と告げた。

目を見開いた梨田は、不安定になっていたカップを置く。

「・・・さすが『香車』。予想以上」

そして、少し赤く染まった顔を隠すように、右手の中指でメガネのブリッジを上げた。

「うん。まあ、知ってたけどね」