やく束は守もります
香月の方でもそんな梨田の様子をみる余裕はなく、味の全然しない冷めたコーヒーを口に含む。
「香月のことだから、たぶん、いろいろ考えた結果、その言葉に集約したんだろうね。本当は確認したいことも、たくさんあるんだろうけど」
梨田は少し首を傾けて何かを考えている。
それは対局のときのように厳しいものではなく、昔と、それから最近まで香月のそばにあった、やさしいまなざしだった。
「『東京に彼女がいて、私のことはからかってるだけなのかなー?』とか考えた?」
「そんな人だと思ってない」
「じゃあ、『遠距離恋愛はお金の負担かける』とか?それとも『付き合ってって言ったら、結婚迫るみたいで重荷』の方?」
「・・・棋士って、人の思考読むのが得意なの?」
「香月なら知ってると思うけど、棋士の読みなんて実生活では何の役にも立たないよ。俺の場合はただ、『杉江香月』って人間を少しは知ってるだけ」
香月と付き合うということは、梨田に相当な負担をかける。
会いに来てもらうことはもちろん、香月が出向いたとしても。
ふたりの間に物理的距離がある以上、「とりあえず付き合ってみる」という軽い選択肢はなかった。
そして付き合うことが簡単でないのなら、躊躇った理由は他にもある。
「もし、いつかダメになるなら、早いうちに離れたいと思って。その方がきれいな思い出にできるから」
「ああ!それは見えてなかったなー。香月とダメになる・・・ちょっと、想像つかないし」
表情に困って、ふいっと窓の外を見遣る。
その横顔に向かって、梨田は愛しそうに目を細めた。
「そのまま真っ直ぐ走ってくればいいんだよ。俺のところまで。香車は前にしか進めないんだから」
「成れば下がれるよ」
「下がられる前に取るから大丈夫」
真っ直ぐ進んだ先の未来を、梨田は真剣な顔で示した。
「今すぐ、とは言わないけど。約束する。だから、東京においで」
『東京においで』
この言葉を言えるようになるまで、十数年かかった。
雪の上に広げてくれたダンボールよりも、厚くてあたたかい覚悟の言葉。
「今の仕事は辞めてもらわないといけないし、豪華な暮らしは約束できない。苦労させるかもしれない。それでいいなら」
「・・・いい」
こみ上げる感情の隙間からこぼした短い言葉。
けれどこれでは足りないと、深呼吸をしてから言い直す。
「一緒に苦労させてくれるなら、そうしたい」
先なんて見えなくていい。
時には惨めで構わない。
梨田が歩む道は、元より香月が望んだ場所なのだから。
間に合わず手の甲を滑る滴を見て、梨田がやさしい笑顔で紙ナプキン差し出した。