生贄姫は隣国の死神王子と送る平穏な毎日を所望する

76.生贄姫は旦那さまと新しい関係を始める。

「もう、俺のことを名前で呼ぶ気はないのか?」

 共に過ごした夜に、一度だけリーリエの口から聞かれた自身の名前。

「あなたが望むのなら、いくらでも」

 そんな答えが欲しいわけではないと分かっていながら、リーリエはなるべく冷静にそう返す。
 テオドールはため息をついて、

「ちなみに愛称では呼ばないのか? 俺がいないところでは呼んでるだろ」

 と呆れたようにそう言った。

「はい? 何で知って……」

 揶揄うように笑うテオドールを見て、リーリエはカマをかけられたのだと知る。
 こんな簡単に引っかかるなんて、とリーリエはガードの甘さとチョロさに驚く。

「俺もリリって呼んでもいいか? まずは、そこから始めたい」

 テオドールの口から聞かれた自身の愛称に、また胸が締め付けられる。

「俺はまだ、こんなことを言えるほど力を持っていないことは分かっている。だが、俺はリーリエが欲しいと思っている」

 こんなに真っ直ぐ、誰かに求められたのは初めてで、リーリエはただ話を聞くことしかできない。

「朝起きて、リーリエが側にいればいいのにと思う。人づてにリーリエのことを聞いて、無性に会いたくなる。リーリエが好きなことを語りながら、夢中で取り組んでいる様に目が惹かれる。リーリエが泣いているとき、側に居るのが俺ならいいのにと願う。身を焦がすような恋情ではないのかもしれない。でも、これが愛とか恋とか呼ばれる類の感情でないのなら、俺はきっと一生そういうものを理解できないのだと思う」

 テオドールから紡がれる言葉はどれも優しくて、その声はとても穏やかで、その熱がすべて自分に向けられているということが泣きたくなるほどうれしかった。

「順番間違えてしまったけれど、キスが嫌でなかったと言われて俺がどれくらいうれしかったか想像できるか?」

 そんなことくらいで一喜一憂する自分にテオドール自身が驚いている。

「今すぐ答えが欲しいとは言わない。だが、俺のこれからを見て、隣にいる選択肢を考えてはくれないか?」

 ただの国同士が決めた書類上の繋がりではなくて、心を通わせた相手になれたらと。
 憧れた人にそう望まれて嬉しくないはずがなかった。
 だからこそ、この手を簡単にとってはいけないとリーリエは思う。
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