本日、結婚いたしましたが、偽装です。

課長と会社のビルの外に出る。


一気に冷えた空気を感じて、寒気がした。


「車、出してくるから少しここで待っててくれ」



課長はそう言い残して、社員用の地下駐車場の方へと足早に歩いて行った。



ビルの正面出口の前で少しの間、待機していると、街灯が反射して夜なのに光沢が出ている黒のボディの車が歩道の向こうに止まった。


課長、車通勤なんだ。今、初めて知った。


それにしても、結構、立派そうな車だな…。


そんなに車に詳しくない私でも一目で分かるくらい。



しばらくその場に佇んでいると、課長が運転席から降りてきた。



「佐藤、寒いから早く乗れ」


近付いてきた課長は私の背中をそっと押しながら車に乗るよう促した。



「は、はい…」



課長に背中を支えられるようにされながら、助手席のドアを開けてもらい、乗った。



私、今初めて、課長の車に乗っている…。



かすかに車の芳香剤の柑橘系の香りがする車内を見回す私の隣に課長が乗り込む。



「まぁまぁな時間だな。飯はどこにする?好き嫌いはあるか?」



課長は右手首を返して腕時計を確認しながら、私に訊いた。



「あ、えっと、…好き嫌いは、ないです」


上司の車の助手席に座っているからか、妙な緊張感でお尻をもぞもぞしながら俯き加減でそう応えた。



「じゃあ、何が好きなんだ?」


「え?」


課長は少し私の方に身体を傾けて上体を近づけさせると、俯く私の顔を覗き込んだ。



「佐藤が今食べたいものも知りたいから、
それもついでに教えてくれ」



…課長は、私の好きな食べ物と私が今食べたいと思っている食べ物を聞き出そうとしている…んだよね…。



「えっと…、好きな食べ物は肉です。
ですけど、今、実は…、食欲があまり無くて」



おずおずと、課長の食事の誘いを断る。


食欲が無いのに課長と食事に行っても、わざわざ残業後に車で連れて行ってもらった上に食事を残してしまうので、課長に対してとても失礼になる。




車に乗る前に本当は早く断った方が良かったかもしれないけれど、エレベーターの中では言い出すタイミングが無かった。




せっかくの上司の食事の誘いを断るのは心苦しかったけれど、食事を残すような失礼な態度を見せるよりは前以て言おうと思った。




お店に行ってから、食欲が無いんですなんて後から言うのも、失礼だから…。



課長の様子を窺うように、俯いていた顔を少しだけ上げて課長の横顔を見た。



課長は重い吐息をつくと、かすかに眉間に皺を寄せた。



「そうか…。すまない、悪かったな。勝手に誘って無理させようとして」



低音のエンジン音が静かに聞こえる比較的落ち着いた雰囲気が流れていた車内に、課長の低い声が響いた。



課長の様子からして、もしかして私、また怒らせちゃった?



色々心配と迷惑を散々かけて、気遣いまでしてもらった上司の誘いを断る部下に対して、礼儀知らずとか典型的な上司みたいなことをもしかしたら思っているのかも…?


それとも近頃は、仕事以外での上司からの誘いを仕事終わってからも上司の顔色を伺いたくないとか余計な気を使いたくないとかそういう様々な理由で断っている部下も多いって聞くし…。




それで課長との食事が嫌だから断ったって、課長に思われてたら、どうしよう…!





課長は仕事中の時とは違う、怒っている時と同じくらいに苦虫を潰したような表情をしていて、その中に冷徹さが見え隠れしていた。



「す、すみません。課長のせっかくの誘いを断るなんて失礼ですよね。でも、本当に、食欲があまりにも無いので…」




ぐるぐると課長側の気持ちを考えて、内心あわあわしながらそう言った。




< 18 / 132 >

この作品をシェア

pagetop