本日、結婚いたしましたが、偽装です。


すると、課長は更に深く眉間に皺を寄せて
小首を傾げる。



「佐藤、一体何を言っているんだ?」




「へ…?」



私は課長の言葉に、ぽかんとした。




「断るのが失礼だとか俺はそんなこと、一度も言ってもいないければ思ってもいないけどな。ていうか、佐藤、もしかして何か勘違いしていないか?」



「…勘違いって…。え、課長、怒っているんじゃないんですか…?」



課長は更に訳の分からないといった表情をした。


「怒っている?俺が?」




「はい。部下に誘いを断られたらあまりいい気持ちにならない上司の方もいると聞いたので、課長も部下の私に、…しかも失敗ばかりして色々と迷惑ばかりかけている私が課長の誘いを断ったから、怒ったのかな…って、」



太腿の上で組んでいる両手に視線を落としながら、蚊の鳴くような声で言った。





「はぁ⁈ 」



課長は今まで聞いたことの無い、天と地がひっくり返ったような声を上げた。



私は突然耳元で課長にそう驚かれたので、びっくりして肩を跳ね上がらせる。




「んなんで怒るわけねえーだろ。ウチの部長じゃあるまいし、誘いの一つや二つ部下に断られたくらいでいちいち腹立てるほど俺は、狭量じゃねえよ。何勝手にそうだと思い込んで決めつけてんだよっ」




一瞬にして、課長の口調や雰囲気がらりと変わり、目の前にいる人が鬼頭課長ではないような幻覚に襲われそうになった。




今、いつもの課長じゃなかったような気が…
したんだけど…?


気、じゃなくて、あからさまに別人だよね…?




「佐藤。俺は、怒ってたんじゃなくて、食欲が無いくらい佐藤の体調が悪いのに付き合わせようとして悪かったっていう意味で言ったんだよ。それと、体調不良に気づかないで残業させたことにもだ。上司失格だろ?部下の体調の変化に気付けずに遅くまで働かせて飯にまで付き合わせる俺は。だから、さっきああ言ったんだよ」




課長は一気にそう言い終わると、シートベルトを外してドアに背を凭せ掛けて目を瞑ると
深い溜息を長くついた。




「わざわざ説明しないと伝わらないのかよ」





課長がいつもの課長ではないことは明らかで人格が変わったことに小首を傾げた。




けれど課長が怒っていると思っていたのは私の大きな勘違いで、あまりにも課長に失礼な勘違いをしていたと気付いて、一気に羞恥を感じる。




課長は、自分の都合に部下を合わせようとする上司ではなければ、仕事終わりの付き合いを強要する上司でもないことくらい、課長の性格や普段の行動を見ていたら分かったはずなのに。




やっくんにフラれたこの一週間で、こう深く勘繰って、余計に深く裏をかくように人の純粋な親切心まで疑うようになってしまった私は、人間不信になりつつあった。




婚約者だったやっくんと大親友だったたまきに裏切られた事による精神的ショックからの何も信じられなくなってしまった弊害が、私の直属の上司の課長に対して出てしまった。




相手に優しくされればされるほど、本当は相手は私のことを悪く言っていたり、そのうち裏切ったりするんだって、被害妄想をしてしまう。



婚約者と別れて、元彼の浮気相手が自分の親友だったという大失恋は、身体だけじゃなく、精神もこんなにボロボロになる。





「佐藤、どうして、あの言葉で俺が怒っているなんて思ったんだよ。全然、俺怒ってねーぞ。怒っていると佐藤にそう疑われるのは、俺がいつも怒ってばかりだからなのか?
それなら、いつもすまない。俺の言い過ぎる性格が、無自覚にお前を傷付けていたのなら
謝る」





突然、課長は身体をドアから起こすと、私の方に身を乗り出してさっきよりも違う優しい声色でそう言った。




私は無言のまま首を横にぶんぶんと振った。



その拍子に私の頬に温かい水滴が流れて、私の手の甲に滴り落ちた。



泣き止んだ涙が、突然、再び大洪水になったように勢いよく流れ始める。



あれ…、どうして今、また涙が出るの?



「っ、うっ…、ひっ…、っ…」




泣き腫らした目も詰まりすぎた鼻も泣き声を上げすぎた喉も痛くて、もう息苦しいから泣きたくないのに、涙が止まらない。



今は哀しくないのに、涙がぽろぽろと零れ落ちる。



哀しくないのに、どうして?



心には不思議と温かいものがじんわりと広がりながら溜まっていっていて、負の感情は無い。


もしかして、今は、嬉しいのかな…?


嬉しくて、常に高ぶっていた感情が敏感に反応して涙が出てきたの…かな…。



嬉しくなった理由は、側に居てくれている課長だ…。



課長に心配されて、きつい口調の言葉の裏にある優しさをひしひしと感じて、課長のその温かさもある優しさが心にいとも簡単に沁み込んでいく。



理想的な上司の課長の包容力というのか、大人の落ち着いた大きな優しさが、あったかい毛布みたいに傷だらけで情緒不安定の心をそっと包んでくれる。






体調不良を気にして、課長は当たり前の言葉を言っているのかもしれないけれど、傷心の私には当たり前の言葉のその優しさが嬉しくて、少しだけ怖かった。




「佐藤、泣くなよ。泣いてばかりじゃ、どうしてやりたくても出来ねーだろ。…ったく、もう埒があかねえな。今からどっかに連れていかれても、後で文句言うなよ」



何かを思い立ったように課長は、上司からの業務命令だと言って泣き続ける私にシートベルトを着用するように命令した。



「っ、べ、ベルトを…? なんで…?」



「いいからシートベルトを締めろ。これは命令だ」





私は、何故か課長には逆らえなくて訳も理由も分からないまま、泣きながらシートベルトを締める。




それから、課長もシートベルトを締めると
アクセルペダルを踏み込んで車を発進させて
泣き噦る私に行き先を告げずに走らせていった。



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