彼の甘い包囲網
結局、奏多には戻ってきたことを知らせなかった。

会う約束があるわけでもないし、何か不都合が生じるわけでもない。

だったら、知らせても支障ないと言われそうだけれど、距離をとれるときにはできるだけとっておきたかった。

そうでもしないとすぐに奏多のペースに呑み込まれて、考えることができなくなりそうで恐い。

距離をとったからといって、何かが劇的に変わるわけではないけれど。

そんな私の思いは、結果や結論をすぐに求める柊兄や奏多にはきっとわからない。




四月の入社式を無事に終えて。

研修期間を経て、初めて配属先に勤める記念すべき一日目だ。

私は美坂建築会社に入社した。

業界で十本の指にはいる大きな会社で、合格通知をもらったときは信じられなかった。

運良く大学からの推薦を貰えたことも大きかったけれど、この業界に興味もあった。

企業研究を何度も繰り返し、一番惹かれた会社に入社できた私は本当にラッキーだ。

就職先が決まった報告をした時。

兄は何故か苦々しい表情で私に、おめでとうと言った。

充希くんは蜂谷系列の会社に就職し直さないか、と笑顔で尋ねてきた。

奏多は充希くんに便乗するかのように就職先の変更を奨め、私の仏頂面を見て、慌ててお祝いをしようと言った。

……一体何なの。



「よし、と」

鏡の前でクルッと小さく回る。

真新しい紺のスーツ。

服装はオフィスカジュアルで構わないとは言われたけれど……さすがに初日なので、このスタイルにした。

リクルート姿には見えないように気を遣ってはいるけれど、まだまだスーツに着られている感は否めない。


「楓、遅れるぞ」

「今、出るよ」


兄の言葉に背中を押され、私は元気に家を飛び出した。

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