不埒な先生のいびつな溺愛
「ま、待って、久遠くん、本当に大丈夫だから。ここ涼しくていいよね。私は単語帳見てるだけだし、ここで本読んでてもらってても全然大丈夫だよ」

ここで彼を追い出すのは目覚めが悪い。

無理やりつくった席の椅子を引いてあげると、久遠くんはやっと扉を閉めて、中に入ってきた。

久遠くんが近くに座ったことで、彼の持っていた本が何か分かった。

『黒の海岸線』
海外作家の、男女二人の逃避行の物語。私も大好きな本だ。

このチョイスでなければ、私はこのとき彼に話しかけることはなかっただろう。

「久遠くん。黒の海岸線、読んでるんだ?」

まだ読み始めていないのに、私が声をかけたことで、久遠くんは中断せざるを得なかった。
彼は目を丸くしてこっちを見て、反射的なのか、本を閉じてしまった。

私は本に長らく触れていなかったせいもあり、久遠くんの邪魔をしていることはお構いなしで、さらに話を続けた。

「私も好きだよ。面白いよね」

「……知ってんのか」

「うん。それに、その人の翻訳で読むのが一番好き」

久遠くんはポカンと口を開けたまま、なかなか本を読もうとしない。

本を読まない禁欲生活をしている私が、一番頭の良い人に隣で本を読まれたらどんなにストレスになるだろうというところなのに、まったくそんな気持ちにはならなかった。

それはきっと読んでいたのが『黒の海岸線』だったということと、久遠くんには必死に勉強する他人を嘲笑うような悪意はいっさいなく、純粋に本を読みたいだけなのだということが伝わってきたからだ。
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