淡雪
第四章
 金を用意したからすぐに昇進できるはずもなく、だがとりあえずは何事もなく日々は過ぎた。
 そのうち有無を言わさず奈緒の身柄を押さえられると思い込んだのか、良太郎が頻繁に訪れるようにはなったが、それ以外は特に日常に変化はない。

 一つだけ、奈緒の行動で変わったことといえば、外に出ると、決まって稲荷神社に立ち寄ることか。
 だが時刻がまちまちになるし、特に約束を取り付けているわけでもないので、あれ以来黒坂には会っていない。

 その日も稽古事の帰り、奈緒は稲荷神社に足を向けた。
 きょろきょろと辺りを見回してみても、黒坂らしき人の姿はない。

 ため息をつきつつ本殿でお参りをしようとしたとき、ふと話し声が聞こえた。
 ちらりと振り返ると、本殿裏の木の後ろに人影がある。

「やはり舟雅が一番よろしいかと」

「わかった」

 自然な風を装いながら話しているのは黒坂だ。
 誰と話しているのだろう、と少し身体を反らせた奈緒は、少し目を見開いた。

 黒坂の前にいるのは、小さな女子だ。
 黒髪を、きっちりと肩で切りそろえ、小さな荷物を抱えている。
 お使いの途中、といった感じだが、町娘という雰囲気でもない。

 何だろう、と奈緒が思っているうちに、少女は、たたた、と離れて行った。
 黒坂はそのままそこに佇んでいる。

 何となく声をかける機会を見失い、奈緒はとりあえず、本殿に向かって柏手を打った。
 その音に、黒坂が振り返る。

 気付いていない風を装い、奈緒はお参りを済ませると、踵を返した。
 そこで初めて気付いたように、黒坂を見る。

「あ、あら。こんにちは」

 少し、黒坂が妙な顔をした。
 ぎこちなさに気付いたのかもしれない。
 が、特に何を言うわけでもなく、彼は本殿のほうへ歩いてきた。
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