淡雪
 そもそも何故こんなに黒坂のことが気になるのだろう。
 奈緒には良太郎という、れっきとした許嫁がいる。
 音羽との会話で黒坂のことは知れたが、それまでは単なる得体の知れない浪人でしかなかった。

 何だか黒坂が絡むと、奈緒は自分が止められなくなる。
 心に広がる黒い染みに支配されているように、普段では考えられない行動を取ってしまうのだ。

 安宿で音羽と会ってから、奈緒は三味線の稽古にも行かずに、ぼぅっとしていた。
 何をする気にもなれない。

「奈緒さん、ちょっと」

 母親に呼ばれて居間に入ると、父親が難しい顔で座っている。
 奈緒が前に座ると、左衛門は沈黙の後、口を開いた。

「出世なんだがな……危ういらしいのだ」

 言いにくそうに切り出す。
 そういえば、あくまで黒坂が奈緒を拒んだ場合はどうなるのだろう。

「だ、だが小槌屋が、そう無体なことをするとも思えぬ。聞けば、さるお方に嫁ぐことを条件にされたそうではないか。小槌屋の知り合いとなれば、そう悪いお人でもないのではないか?」

「どうでしょう。父上もご存じの、対談方ですが。でもその方には心に決めた方がおられるようですし、あくまでわたくしを拒んだ場合は、小槌屋さんはどうするつもりでしょう」

「あの浪人か。承服しかねるが、小槌屋の目は信頼している。彼が薦める相手だというなら、悪い人ではないだろう。良太郎殿には申し訳ないが……」

 父の言い方だと、どうも昇進は無理のようだ。
 いよいよ黒坂との婚儀が現実味を帯びてきた。

 そう思うと同時に、また奈緒の心に黒い染みが広がっていく。
 あの女を何とかしなければ。
< 64 / 127 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop