淡雪
「小槌屋。いきなりどうしたのだ。珍しいのぅ」

 座敷に入るなり、伊田が平伏している金吾に声をかけた。
 次の日の朝のうちに、金吾は伊田家へ使いを出した。
 そして夕刻、小料理屋での面会を取り付けたのだ。

「伊田様もお忙しいところ、お運び頂きありがとうございます」

 商人らしく、金吾は伊田に上座を勧めた。
 すぐに酒肴が運ばれてくる。

「高保様には、残念なことでしたな」

 伊田の杯に酒を注ぎながら言うと、伊田は、うむ、と渋い顔をした。

「対立派閥であった故な……。そうそう、そのことなのだが。良太郎までが金子を用意しおった」

「はぁ。あまり意味はないのでは、と申し上げましたが」

「聞けば奈緒殿も、新たにそなたから借り入れを行ったようだな? 全く、これからという者が、揃いも揃って何をしておるのだか」

「まぁまぁ、お家を想ってのことですよ」

 ちら、と伊田の視線が上がった。
 そのまま金吾を通り越し、部屋の中を眺めまわす。

「……わしはてっきり、良太郎の借財のことで、対談方でも連れてきているのだと思っていたが」

「はは、まさか。伊田様は他に借金もありませぬし、対談方を差し向けるにゃ早すぎますよ」

「では高保殿のほうか」

「ええ。高保様……といいますか。奈緒さまのほうです。奈緒様はご子息の許嫁。奈緒様の借財を、伊田様に持って頂くわけにはいきませんかね」

 金吾は笑顔を崩さず、そう言った。
 少し訝しげに伊田が金吾を見、顎をさすりながら考える。

 奈緒が良太郎に嫁げば、伊田の娘だ。
 伊田が持ってもおかしくない。

「そういえば、息子が言うておったが、おぬし、何やら奈緒殿に金を貸す条件に、彼女自身を所望したそうだな」

「ええ。奈緒様の身柄を担保にすることを条件といたしました」

「それで良太郎が、血相を変えたのだな」

「……そこまで想われておりながら、女子というのはわかりませぬな」

 ぼそ、と金吾が呟いた。
 金吾としては、いつまでも音羽に囚われている黒坂の目を覚ますため、また奈緒の心にも気付いた上での最善策を取ったつもりだった。

 黒坂は普通に小さな家庭を持ち、音羽は他の旦那を見つける。
 音羽であれば、すぐにでも落籍して貰えるだろう。
 そうすれば苦界からも抜けられる。

 奈緒は好いた黒坂と一緒になれる。
 良太郎には気の毒だが、元々金吾は黒坂のためであり、ひいては音羽のためでもあることが大事なので、他の二人はどうでもいいのだ。

 それが、こんなことになろうとは。
 奈緒がそこまで激しい女子だとは思わなかった。
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