淡雪
 夕暮れ時に小槌屋に戻ってきた黒坂は、店に良太郎が来ていることを知らされた。
 少し悩み、黒坂は店の座敷へと進んだ。

「おや、戻られましたか」

 金吾が顔を上げる。
 その前にいる良太郎も、ちらりと黒坂を見た。

 随分やつれた感じだ。
 以前のような溌剌とした雰囲気が微塵もない。

「……珍しい客だな」

「そうでもございませんよ。まぁ……伊田様は、今はお客様ではありませんがね」

 ふふふ、と笑い、金吾は茶を啜った。

「ついては奈緒様についてのご相談なのですが」

 ちらりと金吾が良太郎を見ると、その視線を受けて、良太郎が黒坂のほうへ身体を向けた。

「奈緒殿は、借金の形に、貴殿に嫁がれるとか」

「ああ、小槌屋はそのつもりみたいだな」

 他人事のように言うと、良太郎は怪訝な表情になった。
 小槌屋が、軽く肩を竦める。

「あなたと奈緒殿は、お知り合いだったのですか?」

「……何故だ?」

 はて、奈緒とはいつ会ったんだったか、と考えながら黒坂が言うと、良太郎は一旦口を噤んだ。
 少し考えるように視線を泳がせた後、眉間に皺を刻んで口を開く。

「……奈緒殿の借財は、父が持とう、と言ってくれたのです。奈緒殿は私の許嫁ですから、父にとっても娘同様なので。ですが、それがはたしていいことなのか……」

 おや、これはいい方向に話が進んだものだ、と思ったが、そんな黒坂の心とは裏腹に、良太郎の表情は硬い。
 奈緒の借金がなくなれば、彼女は良太郎の許嫁に戻れる。
 黒坂に嫁ぐ必要もないわけだ。

 実家の借金は残るが、それも元の生活に戻るだけ。
 それのどこに不満があるのだろう。

「奈緒殿が己の身を犠牲にしてまでお父上のために借りた金です。お父上の昇進が叶わないとなったときでも、気丈に運命を受け入れてました。奈緒殿の借金を父が肩代わりすることは、奈緒殿の誇りを傷つけるのではないかと」

 う~ん、と黒坂も小槌屋も考え込んだ。
 奈緒が誇り高い武家娘、というだけだったら、良太郎のこの危惧ももっともだ。
 親のためとはいえ、此度の借財は奈緒自身が借りたものだ。
 それを許嫁の親に肩代わりして貰うことなど恥でしかないかもしれない。

 だが、奈緒は普通ではない狂気を秘めている。
 黒坂も小槌屋も、良太郎とは別のところが気になっている。

 もし奈緒の借金がなくなった、となると、奈緒はどういう行動に出るだろう。
 普通に良太郎の元へと戻るだろうか。
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