キライ、じゃないよ。
「乗ります」


そんな声が聞こえて、俺は慌ててエレベーターの開ボタンを押した。

向かってきた女性は俺に気付き、エレベーターに乗る前にこちらに会釈をした。

急いでいたのだろう、肩で息をしつつ乱れた衣服を整える様をなんとなく目の端で見る。

後ろで纏められた髪の後れ毛が、うなじで揺れている。

可愛らしい女性だった。上に羽織った白いファーが付いたコートが彼女をさらに可憐に見せていると思った。

不意に顔をこちらに向けた女性と目が合う。

あ、と思った次の瞬間、女性の目が驚きに見開かれ、そして一瞬。ほんの一瞬困惑の色が見えた。

護だとすぐに分かった。

あの頃よりさらに痩せて、線が細くなっているけれど間違えるはずがない。

そして彼女だと認識した途端、手先が震え胸が苦しくなった。

どう声をかければいいのか、そもそも声をかけていいのかさえ分からず、俺は情けなくも視線を彷徨わせた挙句、「えっと……」と間抜けな声をこぼした。


「樫……?」


懐かしい声音だった。

小首を傾げたその仕草に、胸がさらに強く脈打つ。

昔となんら変わらない少し高く、だけど柔らかな声音。

ドクンドクンと強く打ちつける鼓動に、軽く目眩がした。

今なら認められる。

山近が偉そうに説教したあの時は、まだどこかで思っていた。自分はそんなに弱い人間じゃないと。振られた相手にいつまでも未練たらしく想いを残したりしないと。

だけどそうじゃなかった。

久しぶりに彼女と再会して分かった。

俺は日本一、いや、世界一未練に塗れた男だ。
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