花の名前
はじまり

1

「あんたみたいなのを“わーかほりっく”って言うらしいよ。」

 日付が変わる直前に帰ってきて晩飯をかき込む娘に、いきなり何を言うかと思えば、今、平仮名じゃなかった?
 まあ、確かに忙しい時は、夢の中でも図面描いてはいるけどね…。

「誰か、イイ人いないの?」
 向かい合わせに座った母に、肩を竦めて見せると、はぁ~、と大仰なため息をつく。
「別にいいじゃん?剛(つよし)がいくらでも孫作ってくれるよ。」
 2つ年下の弟は、大学卒業間際に彼女の妊娠が発覚。慌てて結婚式を挙げ、現在奥さんは2人目を妊娠中だ(早っ)。
 まだ2年目の平社員だから、当然安月給な訳で、夫婦共々お互いの実家に入り浸ってはご飯を食べたり、食材を持ち帰ったりしているから、母の顔も苦々しい。孫に会えるのは、まあ、嬉しいようだけど。
「今はあんたの話をしてんのよ。こんな遅くまで仕事して、体壊したらどうするの?結婚しても子供産めなくなるわよ?!」
「―――ご馳走様。」
「ちょっと、透子?!」
 待ちなさいっっと喚く母を置いて、自室へ引き上げた。

 実際、もう頃合いだな…と思う。
 ずっと実家に居続けたのは、一級建築士を受ける間、仕事に勉強にと追われる中で、家の事までするのは面倒だろうと思ったからだ。
 猛勉強の甲斐あって、一発合格出来た事だし、そろそろ家を出るのは有りだな…と。

 だから、その申し出は、所謂“渡りに舟”というヤツだったのだ。

 ―――卒業したら、家を出ようと思ってるんだけど、一緒にどう?

 つい先日の事だった。
 ヤツが無事教員採用試験に合格したことは聞いていたけど、こっちがまだ試験が終わってなくて連絡が取れずにいたら、建築士の合格発表をネットで見たと言って来た。
 お互いの合格を祝って乾杯しよう―――と。

 そう送られてきたメールに、乾杯も何もあんた飲めないじゃん?と思わず苦笑しながら、亜衣子サンの店を指定して待ち合わせた。

 少し遅れて着くと、ヤツはすでにカウンター席に座って、亜衣子サンとおしゃべりをしていた。
 その前に置かれていたのは、なんと肉じゃがだ。
「来るっていうから、作ったのよ~、トーコちゃんも食べる?」
 有難く頂戴しながらも苦笑を禁じ得ない。
 結局ここって、何屋なのよ?
「何にする?」
「んー、肉じゃがなら、梅酒かな?ロックで」
 いつもはジントニックだけど、まあ冬だし。日本酒は苦手だけど梅酒は飲みやすいから好きなんだよね。
 出てきたグラスを掲げて、乾杯をした。
 お互いの、健闘を称えて。


「まだ、赴任先とかはわからないんだよね?」
「うん、でも市内になることは確実だから、駅前考えてるんだ。」
 そう言って、賃貸情報誌を見せてくる。
 駅前だとまぁまぁ値段が良くなるけど、2人で折半なら、確かに悪くはないなぁ…と梅酒をちびちびやりながら、隣に座った横顔を眺めた。

「…お父さん、なんて?」
「さあ?母には電話したけど。頑張ってね、だって。」
「そ、か…」

 それ以上何も聞けずに、やわらかな髪を撫で撫でしてやる。
 “カズ”はそれを嫌がるでもなく、されるがままにしながら、皿の中身を片付けていく。細いくせに、よく食べるよなぁ。
「今日もお疲れだね、トーコさん。」
「そんなことないよ?」
 そう言ってふふ、と笑う。

 今日も帰り際に嫌味を言われた。
 ソイツは5つも上だったけど、未だに一級受かってないから、色々と面倒くさい。
 ―――いいよな~、女は早く帰れて。
 とか言うけど、単純にあんたの方が先輩なんだから、あたしの方が仕事多かったらおかしくない?
 ていうか、持ってる案件数はさして変わらないよね?
 しかも業務時間中、電話は全部あたしが取ってるじゃん?
 後から入った男の子もいるのに、1番下のヤツが取れとか言って。その子よりあたしの方が仕事多いんですけど?!
 言いたいことはいっぱいあるけど、それを言ってもしょうが無いから言わない。面倒くさいから。
 だから、母も、娘が毎日遅くまで、楽しく仕事してると思ってるんだろうな、と思う。
 家に帰ると必ずやって来て、食べてるあたしの隣で色々と愚痴る位だから、あたしにはストレスないと思ってるに違いない。
 面倒くさい、ホントに面倒くさい。

 そう思いながら目を閉じると、大きな手の平で、お返しのように髪を撫でられた。
 まるで猫にでもなったような、くすぐったい気分で目を開けると、柔らかい微笑みにぶつかる。…やっぱり猫だと思ってるな、コイツ。そんな顔だった。

 うん、悪くない。
 こんな風になでなでしてもらいながら眠れたら、きっと、スゴく幸せだ。

 そう思って。

 年明け早々に、部屋を借りて家を出た。

 ―――同居、のつもりだった。
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