花の名前

8

 帰りは高速を通る―――と言われて、何の気なしに同意したのがバカだった。

 普段とはまるで違うスピードに、ギュッと目を瞑って背中にしがみつく。―――絶対、わざとだと思う。
 普通道に降りてからも、スピードをあまり落とさずカーブに突っ込むから、もの凄く車体を倒され、恐怖で心臓が飛び出しそうになった。

 つまり、いつもはそれだけ加減されていた―――という事なんではあるのだけど…。


「着いたよ。」
 と言われて、シートから降ろされる。
 抱いていこうか?と言いながら笑っている顔を睨み付けて、外したメットを胸に押しつけた。
「結構です。」
 くるりと背中を向けて、幾分蹌踉けながらも、一人で歩いて玄関から中に入る。
 土間を通って、正面の大きな硝子の引き戸を開けてやると、カズがバイクを押して入ってきた。重たい重量をものともせず、片腕でバイクを持ち上げるようにしながらスタンドを立てる。
 メットを外すのを横目で見ながら、リビングに上がってコートを脱いだ。

 何だか酷く疲れた気分だった。
 ―――思えば、朝から様子がおかしかった気がする。

 一緒に暮らし始めてから軽口が増えてはいたけど、決して度を超えたものでは無かったし、一定の距離感があって、同居人としては非常に良い関係だったと思うのに、何でいきなり…。
 思い出して、思わず口許を押さえた。
 ファーストキスだと言われた声まで、耳の奥に蘇る。
 振り切るように頭を振った。

 落ち着いて、落ち着いて。
 大丈夫、ちょっと冗談が過ぎただけだ。

 何かホテルとか、意味分かんない事言ってたけど、気のせい、気のせい。
 よし、まずはコーヒーだ。うん。

 流しで手を洗って、そのままヤカンを手に取り、水を入れて火にかけようとガスコンロの五徳に乗せた所で、後ろから伸びてきた手に、腕を摑まれた。
 ギョッとして振り向く間もなく、お腹に回った腕で、腰を後ろに引かれる。
 腕を掴んだままの手も、そのまま胸元に回され、強く抱き竦められた。

「ちょっ…」
「どうする? シャワー使う?」
 はい?! ―――何言ってんの?!
 首を捻って後悔した。耳の直ぐ側にカズの顔があって、咄嗟に逃げようとしたけど、更に強く抱き締められて動けない。
「俺はどっちでもいいけど?」
 直接耳の穴に息を吹き込むように囁かれ、背筋がゾクリと震えた。
 さっきと違い、厚手のコートを脱いでしまっているから、カズの意外に硬く逞しい体つきも自分よりも高い体温も直接伝わってきて、鼓動が激しくなる。

 ギュッ―――と目を閉じた。
 大丈夫、落ち着いて。
 体の微かな震えを押さえ込むように、大きく息を吸って、吐いた。
 大丈夫―――ともう1度自分に言い聞かせてから目を開けて、「離して」と言うつもりで横を向いた瞬間、噛みつくように口を開けたカズの顔が目に入った。

 唇を閉じる事が出来たのは上出来だったと思う。
 さっきのようなキスはダメだ。対処出来ない。

 唇を離したカズに体の向きを変えられて、壁に背中を押しつけられる。大丈夫、まだ、大丈夫だ。言い聞かせながら押し退けようと藻掻いた腕を摑まれ、両肩の脇に押さえ込まれた所で、カズを睨み付ける為に顔を上げた。

 悔しかった。どう足掻いたって敵わない力の差を見せつけられて、それをしたのがカズだという事が情けなかった―――その位、気を許してたと思う。

 でも、顔を上げた先で、カズはどこか哀しげな笑みを浮かべていた。ひどく傷付いたようなその顔に戸惑い、思わず「どうしたの?」と聞こうとした口を塞がれた。

 舌を差し込まれて反射的に体を強張らせると、カズはまるで宥めるように優しく舌を絡めながら、押さえつけていた手首を親指でなぞり、手の平を押し開くようにしながら指を差し入れて握り込む。
 きゅっ…と、手の平と同時に心臓を摑まれたような気持ちになって、思わず呻いた。
 壁との間で押し潰すかのように体で体を押さえ込まれ、それでも、探るように動く舌先はどこか優しくて、なんだか泣きたいような気持ちになる。
 カズが角度を変えようとして唇が微かに離れる度に、零れる吐息の熱さと、その間も絡み合ったままの舌先から響く音に眩暈を覚えて、縋り付くように手の平を握り返すと、不意にカズの唇が離れた。

 ようやく解放された唇は、酸素を求めて閉じることが出来ず、脇を通って背中に回されたカズの腕に支えられていなければ、床にへたり込んでしまいそうなほど、体の力が抜けている。
 さらに頰を掠めたカズの唇が、耳朶を食んで舐めた。
 ビクッと背中を反らして強張る体を、カズが強く抱き締める。
「どっちにする?」
 掠れた声が耳元で囁く。
「トーコさんとこと、俺の部屋と。」
「…え…」
 咄嗟に言われた意味がわからずボンヤリとしていると、首筋に顔を埋めて、ふ、とカズが笑う。
「じゃあ、ここで。」
 言うなり、強く首筋に吸い付かれた。
 仰け反って逃げようとしても、押した肩はびくともしない。
 背中から回された手がオフネックの緩やかな襟元を押し退けて入り込み、手の平で撫で下ろしながら肩を剥き出しにされて、ゾクリと背筋が震えた。
「いやっ!!」
 なんとか逃れようと体を捩り、腕を突っぱねると、不意にカズの腕の力が緩んで、体が傾ぐ。
 危うく横向きで床に倒れ込むところをカズに支えられ、意図せず正面から向き合って、ドクン、と心臓が音を立てた。

 そこにいたカズの顔は、今まで見たことが無かった。
 普段からは想像もつかないほど熱を帯びた瞳は、どこか潤んで見える。見つめられるだけで背筋がゾクゾクとして、カズの腕に置いた手が微かに震え、その事に気付いたカズが、クスリ、と笑った。その笑顔すら艶めいて見えるのは何でなんだろう?
「そんなに、嫌?」
「え…?」
 咄嗟に何を言われたかわからず、間の抜けた声を出すと、カズが大きく息を吐いて立ち上がった。思わず身をすくませると、カズがため息をつく。
 顔を上げると、表情を無くした暗い瞳が見下ろしていた。
 ゴクッと息を呑むと、カズはもう一度ため息をついて踵を返し、リビングを出て行った。
 ガタガタという音に、カズがバイクで出て行った事に気付く。

 程なく静かになった部屋の中で、しばらく動く事も出来ずに、冷たい床の上に座り込んでいた。
 さっきまでの熱が引いて、むしろそれまで感じたことがないほど、体が冷えているようなそんな気がして、ギュッと、自分で自分を抱き締める。
 何か、取り返しのつかない事になったような気がして。


 そして、その夜、カズは家に帰ってこなかった。
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