花の名前

7

 鏡の中を覗き込んでみても、そこにいるのはいつもと変わらない自分―――だと思う。

 色気のない真っ直ぐな黒髪は、顎までのショートボブ。
 切れ長と言えば聞こえの良い瞳はちょっと冷たい印象で、黙って立ってると怖い―――と言われた事がある位だ。
 色は白いけど化粧っ気が無く、ナチュラルメイクの意味間違えてるだろ?と、学生時代に男子から言われたっけ。
 さすがにシミはまだ無いけど、微かにそばかすが散っていて、そういえば、これ塗っとけと日焼け止めをくれたのも男子だったな、と思い返す。
 体も、細いと言えば細いけど要はガリガリで、必要なトコにも肉が付いてないから、やっぱり色気は無いよね?
 ホント、物好きだな―――そう思いながら首元に手をやると、いつも触れる鎖骨がタートルネックのカットソーで隠れてる事を思い出して、ちょっと恥ずかしくなった。

 仕事着はいつもパンツスーツで、中には白いシャツを着ている―――いつもは。

 今朝着替えてキッチンに入っていくと、先に来て野菜を洗っていたカズに、苦笑しながら指摘された。
「いいの、それ?」
 何の事だろう?と首を傾げると、近くに寄ってきたカズに、すいっと、指で鎖骨を撫でられ、思わず後ずさった腰を捕らわれた。
「トーコさん、色白いから…ゴメンね?」

 ちっとも反省してるように見えない顔で言われた事を思い出して、ちょっと忌々しい気分になる。
 これに着替える時にチェックしたら、他にもあちこち付けられていた。胸とか腕とかお腹とか―――太股とか…。
 思い出して、まざまざと蘇る昨夜の痴態に、頭を抱える。

 ダメだっっ、思い出すなっ、自分っっっ!!!

 パンッと音がするほど強く、両手で頰を叩いて気合い(?)を入れてから、化粧室(レストルーム)を出た。
 亜衣子サンの店のトイレは、出店前の改装時に、元々のものを少し拡張したそうで、女性らしく綺麗に整えられている。
 そもそもスナックだったお店なので、狭くて汚い上に便座の真っ正面に洗面台が設置されていたらしく、それだけでも有り得ないと思うのは女ならではだと思う。
 だって、下着を下ろして座った姿を見ながら―――なんて、どうよ、それ。きっと、設計したのは男に違いない。

 出て直ぐの所にある出入り口に、コートとバッグを持ったカズが立っていた。
「今日は早く帰るんだよね?」
 と促されるまま、亜衣子サンにご馳走様ですと言って、お店を出る。近くの立体駐車場に車を停めているから、と背中に手を回されて、途端に背筋が震えた。気付いたカズが、苦笑する。
「心配しなくても、大丈夫だよ。…行こう。」
 優しく言われ、何となく居たたまれない気分になって、視線を伏せた。

 今日は遅くなるかもしれないと、先に牽制したのは、自分がどうにも落ち着かなかったからだ。

 納得の上での事だったし、正直、他を知らないので、比較の仕様が無いけど、優しかった…と思う。たぶん。ただ、何というのか、思いもよらない経験をしてしまった、と言うんだろうか。
 体中至る所にキスをされて、舐められて、吸われた―――冗談抜きに。胸はまだいい(いや、よくはないけど。びっくりしたけど)、でも―――チラリと隣の横顔を見ると、気付いたカズが微笑む。思わず視線を逸らした。
 だってこの顔が、あんな所に―――そう思うだけでその場にしゃがみ込んでしまいたい気分だった。あまりにも恥ずかしくて。
 そのくせ、体は正直に全部覚えていて、ふとした拍子に色々と不都合な事を思い出してしまうものだから、今日は仕事にならず、病後というのも相まって定時退社する事になったのだった。

 迷った末に電話をしたのは、やっぱり心配かけてるという自覚もあったからだけど、会社まで迎えに来てもらうのは気が引けたのと、朝、何の気なしに車で送ってもらっている間、狭い車内で二人きりでいる事がちょっと拷問的だったからというのが1番大きい。
 一人で帰れると言うのに、なかなか折れてくれないものだから、じゃあ亜衣子サンのお店で待ち合わせよう…という事になったのだけれど。

 立体駐車場までの道は歩道が無くて、カズは自分が車側を歩きながら、時折、エスコートするように腰に手を添えてくるから、困ってしまう。
 普通はこんな事にはならないんだろうか―――側にいるだけで、気配を感じるだけで、胸の奥から苦しいような切ないような、甘い何かが生まれて、体全体に広がっていく、なんて。
 少なくともカズは平気そうだ、そう思うと何か悔しいので、顔には出さないようがんばってるけど、腰を抱かれた状態だとバレそうだから止めて欲しい。
 それとなく体を離そうとムダな努力をしていると、不意に耳元でカズが言った。

「やっぱり、怒ってる?」
 一瞬何の事かわからなくて顔を上げると、カズが少し困ったような顔をしていて、それで思い出して、また赤くなってしまった。
「別に、…カズだけのせいじゃ、ない、し…」
 ちょっと小さな声になってしまったのは仕方ないと思う。

 実を言うと、昨夜、いわゆる“避妊”に失敗していた、かもしれない、らしい。
 というのが、カズはちゃんと着けてくれていたらしいのだけど、…いわゆる、1回目…が終わった後で、私がやらかしてしまった―――らしいのだ。
 やたらと曖昧なのは、この時の自分の記憶があやふやなせいで、カズが言うには、肩を強く握り込んだ事で出来た傷に気付いた私が、ゴメンと謝りながらそこにキスした挙げ句、首にしがみつくようにして、今度は唇にキスをした…らしい。
 ゴメンね、と言いながら。

 それ、ホントに私デスか…?

 と聞き返したい気分ながら、ゴメン(理性が)保たなかった―――というカズの謝罪を、力無く受け入れる事しか出来なかった。そうなんだ、2回使ったらいけないんだね…と。

 正直、こういう場合、どうしていいかわからず、とりあえず、ちょっと(?)漏れたぐらいで出来はしないだろうと、高をくくる事にした。
 落ち着いたら、美幸さんに相談しに行ってもいいかな…と思いながら。


「清算してくるから、先に乗ってて。」
 二階の階段上って直ぐだから、と言われて鍵を受け取る。
 美幸さんから借りている車は、旧式のローバーミニだ。
 フロントパネルがウッドでとっても可愛らしい車だけれど、パワーステアリングでもなければ、パワーウインドウでもないという、厄介な車でもある。
 もう美幸さんは運転してないとかで、
「トーコさんが乗るなら、このまま貰って、パワステ付けてもいいよ。」
 と、事も無げに言われてしまった。さすがにそこまでは…と思うけど、運転してみたいという気持ちはちょっとあるから、嬉しくないと言ったら嘘になる。

 エレベーターを使うまでも無いなと思って、階段室に向かって振り返った所で、立ち竦んだ。

「高橋さん…」
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