花の名前
あやなきもの

1

「初島さん、蒲田邸のサッシ図上がってきましたよ。」
「あー、ごめん、チェック頼める?」
「はい。あと、戸町ビルの所長から電話ありましたけど。」
「了解。4時から打ち合わせ行ってくるから、何かあったらメールもらえる?」
「了解っす…。」
「八木君、何なら今日は早く帰ってもいいよ。もう1週間―――」
「それは初島さんの方でしょう。」

 心なしか元気の無い声にかけた言葉を遮るように言われて、電話のプッシュボタンを押す手を止めた。
 見ると、八木君がパソコンのモニター越しに、睨みつけるようにこっちを見ている。

「今日は特に酷い顔してますよ?ちゃんと寝てんすか?」
 もちろん、とは答えられなかった。実際ベッドに入っていても、寝てるような寝てないような、そんな日が続いていたから。
「打ち合わせは教会でしたっけ、車は止めて下さいね。何なら俺、タクシー代出すんで―――」
「おいおい、どこのお嬢だよ。」
 声に振り向くと、部屋の入り口で腕を組んだ社長が、呆れ顔でこっちを見ていた。
 その後にいたスーツ姿の人物を見て、一瞬、体が強張る。いつの間に―――?
「じゃあ、今日はこれで…」
「ああ。」
 そう言って、背中を向けた“シノ”を見送った社長が向き直る。
「浜さんとこの改修図面、出来たか?」
「あ、はい。」
 ひとまず受話器を置いて、パソコン前に座り直し、ファイルを開いて印刷をかけた。かなり規模の小さい仕事だが、社長が古くからの知り合いに頼まれたものだ。
 高橋さんは主に大きい案件ばかりを持ち出し、こういった小さい仕事は全て放置していた。おかげでこの2週間あまり、毎日のように午前様になっている。
「タクシー使ったら、ちゃんと領収出せよ。」
 ざっと図面に視線を走らせてから、社長はそう言って部屋を出た。珍しい事が有るもんだと呆気に取られていると、八木君が苦笑した。
「アレでも一応、気を遣ってるんですよ。初島さん倒れちゃったらコトだし。」
 なるほど、と納得して再び受話器を手に取った。


 表通りに出て、タクシーを拾おうかバスにしようかと迷っていると、前の車道に車が停まった。高級ラインの国産車だ―――俺はこっち派だと、そういえば大学の頃言ってたっけ。
「…乗れよ。」
 高橋さんの事で話がある、と言われて、1つため息をついてから助手席に乗り込んだ。

「あの教会でいいのか?」
「うん、引っ越しの業者決まったから、契約書(これ)持って行って、ついでに幾つか確認をね。」
「コンクリート版を使うらしいな。」
「RCにするには予算と工期が足りないんだ。塗装で漆喰風に仕上げようかと思ってるんだけど、まだサンプルが届かなくってさ。」
 ふーん…と、気のない返事が帰ってくるのを、前を向いたままで聞き流す。しばらく沈黙した後で、シノがやっと聞いてきた。

「―――体調は、どうなんだ?」
「ん?うん、まあまあかな。睡眠不足だけど。」
 やはり前を向いたままで、何でも無い事のように答える。
 シノがハンドルを苛立たしげに指で叩いた。
「そうじゃなくて―――」
「来たよ。」
 ひと言だけ告げて、微かに口角を上げてみせる。
 あれからひと月近く経っていた。そうか…と呟いたシノが、ため息をついたのを気配で感じる。
「…まだ、一緒に暮らしてんのか?」
 それをシノ(あんた)が聞く?―――と、ひと月前なら言ってたと思う。でも、今はそんな元気がない。
「高橋さんの話じゃなかったの?」
 用がないなら降ろして欲しい。言外に告げると、シノが再びため息をついた。

「瀬尾さん、ってわかるか?」
 頷いて、顔を顰めた。入社してから1年間、“お世話になった”先輩だ。忘れようも無い。
 あのご夫婦のパン屋も、瀬尾さんの名前で申請を出している―――彼自身は殆ど何もしなかったけど。まだ自分が建築士を持っていなかったから仕方なかった。
「辞めて、事務所開いてるけど…」
「どうも、そこが思わしく無いらしい。」
 どういう事だろう? シノの方に顔を向けると、面白くなさそうな顔でハンドルを捌いていた。どうやら、社長に頼まれて、高橋さんの動向を探っていたらしい。一応、当事者の1人だからという事で。

 瀬尾さんは高橋さんのさらに3つ年上で、完全バブル世代だ。スーツも腕時計もクラッチバッグも高級ブランド品で固めていた事を思い出す。
「―――あの時代のヤツら…まあ、全員が全員じゃ無いだろうけど、勘違いしてるのが多いからな。建築士取ったら、すぐ辞めて事務所を立ち上げて。バブル期は建築業界が活気付いてたから、仕事は腐るほどあったんだろ。」
 バブル経済の元になっていたのは、土地の不動産売買だから、それに付随する形で、新しい建物がバンバン建てられていた。しかもタイルなどをふんだんに使った平米単価の高い物が多いと聞く。そう言えば瀬尾さんも、やたらと内装とかにお金を掛けたがっていたっけ…男子トイレの汚垂れ石に大理石とか…。
「何度も来てたらしいぜ、仕事回してもらえないかってさ。」
「ずいぶん虫のいい…」
 社長もそう思ったのだろう。でも、何度断ってもやって来るから相手にするのも煩わしくなったらしい。
「それで、高橋さんに追い返すように指示したらしいんだが…」
「逆に取り込まれちゃったって事?」
「まあ、そうだな。」
 何となく歯切れの悪い言い方をして、シノが車を停めた。

「バブルの残りカス―――って、言われたらしい。」
「…誰に?」
「社長だよ。人出が足りないから採ったけど、時期が違えば採らなかったってさ。」
 バブル期はいわゆる“売り手市場”というヤツで、学生1人に何社も求人があるような時代だった。当然、学生の方が会社を好きに選ぶから、思うような採用が出来ない企業も多かったのだろう。今から思うと贅沢な話だ。
「高橋さんのメール、見たか?」
「添付のは見てないけど…」
「…そうか…」
 シノはそう言って視線を落とすと、エンジンを止めた。いつの間にか、車通りの少ない、でも広い車道の路肩に停まっていた。他にも何台か停まっているから、営業マンがちょっとした休憩や、電話をかけたりするのにちょうどいいのかもしれない。
「シノは、見たの?」
「……」
「何か、書いてあった?」
 シノはハンドルに手を置いたまま、しばらく考えてから、静かに話し始めた。
 “一身上の都合により”から始まるそれは、支離滅裂で、要領を得ないような文章だったけれど、主に事務所に対する不満や恨みのようなものが書かれていたらしい。
 社長の暴言がきっかけではあったけれど、それ以前から色々溜まっていたようだ、と言ってから、シノが顔を上げてこっちを向いた。

「透子、お前、ホントにあそこ辞める気は無いか?」
 言うなり、逃げる間もなく、片方の手を取られる。
「営業やってたからな、割と顔利くようになったし、貯金もある。だから…」
 一緒に設計事務所を始めないか、と。前と同じ事を繰り返す。お前はやりたいようにすればいい、必要な事は全部俺が引き受ける―――そこまで言ってから、シノが視線を落とした。

「後悔してるんだ。あそこにお前をやった事。」

 ―――え?!

 思いがけない言葉に呆気に取られた。どういう事なんだろう?
「お前はずっと、設計が希望だっただろ?いけそうな求人の中では、あそこが1番、お前の希望に近いだろうと思ったんだ。」
 教授には悪いことしたけどな、と言って、微かに口角を上げたシノの顔を、呆然と見つめる。あの事務所には教授の推薦で、シノが断ったから、だから、自分に―――
 咄嗟に引き抜こうとした手を、シノが強く握りしめた。

「全部、お前の為だった。」

 言わないつもりだったけど―――そう言って、真っ直ぐに見つめるシノの眼差しに、微かな眩暈を覚えた。
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