花の名前

2

 入ってきたのがお前だったら良かった―――と、社長が言ったらしい。

 男女雇用機会均等法が制定されて久しい。
 職種に性別を固定しない事と同時に、性別を理由に給与に差を付ける事も禁止されたそれは、逆差別という問題も引き起こした。

「社長は良くも悪くも昔気質の人だ。それでも、実力主義だったから、お前なら大丈夫だろうと思ってたんだけどな…」
 建築士に合格した事を告げた時、社長はさも当然という顔をしていたけど、後からお祝いとして有名ブランドの名刺入れをくれた。ちゃんと作り直せよ、と言って。
 勿論、今までにもそうしていたと聞いたし、特別扱いを受けているとは全く思っていないのに、どうしてだろう?

「…今までの悪習ってヤツだな。単純に、社長が気付いてなかっただけなんだが…。どうも、建築士を受験している間、仕事を下のヤツに押し付けてたらしいんだ。」
 それを聞いて、あ―――と思い至った。
 入って直ぐの頃だ。高橋さんに、終業間際になって仕事を押し付けられる事が多かった。学校に行く為と称して、ウチは昔からそういう体制だとか何とか言うから、自分の時はやるまいと心に誓いながら、残業していたのだが―――。
「男と違って、女が遅くまで残ってるのは目に付くんだよ。特に上の年齢になる程な。」
 自分の仕事なら仕方ないが、高橋さんのだと知った社長の怒りは凄まじかった。しかも、それまで皆そうしていたと進言したものだから、更に。
 今度やったらクビにすると言い渡され、それから高橋さんに仕事を押し付けられる事は無くなったけれど、だからといって、彼の方が必要以上に仕事量が多かった訳じゃ無いはずだ。社長はそういう所は公正な人なのだから。
「アイツの目にはそう映って無かったって事だ。社長も気付きゃ良かったのに、何かとお前の事を引き合いに出してたらしい。やっぱりバブル世代とは違うってな。」
 3年もかけて学科に受かったのに、2年続けて図面で落ちた。去年は1回で学科に受かったけど、また今年も図面で落ちたとなれば、社長が呆れるのも無理は無いけれど、正直、そういう人も珍しくはないのが実情だ。
 ただ、今回私が、受かっていなければ―――。

「お前はバブルの残りカスだな。」
 そう言われて、高橋さんは事務所を辞めようと思ったらしい。でも、あの年齢で、建築士になっていればともかく、転職など出来るものだろうか―――?
「だからつけ込まれたんだよ、瀬尾さんに。」
 “美味いの”持って来いよ、と言われたらしい。

 だから、ある意味あの教会は助かったのだ。工期がタイトで予算が少なく、かつ制限も多い。
 四角い事務所ビルやマンション等は、テンプレートを使って設計出来るくせに規模が大きいから、そういうものばかり狙われたそうだ。
「ただ、高橋さん(アイツ)はどうしてもお前が気に入らなかったんだろうな。それで、たまたまやって来た俺に話を持ちかけてきたんだろう。」
 俺と話す時も酷かった―――そう言うからには、きっと、メールの中でも、罵詈雑言の嵐だったに違いない。
 微かに震えた指を、シノが強く握った。
「俺が相手だったら、きっとアイツのいいようにはしなかったし、社長が引き合いに出しても、もうちょっと違ってたかもしれない。」
 どっちにしても、アイツが仕事出来ない事に替わりねぇけどな…と、顔を歪めて笑う―――あの日と同じように。
 段々と、指先が冷えていくような気がしていた。

「心配すんな。」
 そう言って、シノが両手で手のひらを包み込むと、親指でそっと、手の甲を愛おしげに撫でる。
 全部、俺が引き受けてやるから、大丈夫―――優しく微笑む顔を、信じられない思いで、見返した。


「…それであたしは、シノがお膳立てした事務所で、シノが取ってきた仕事をこなして、その“お礼”に、シノに足を開けばいいの?」


 シノが息を呑んだ、その瞬間に、手を引き抜いた。

「あたしが、女だからいけないって事だよね?あたしでなければこんな事にはならなかった…」
「―――違っ、」
「違わないでしょ?―――しかもあたしは、シノのお情けで、就職してた…」
 唇から、乾いた笑みが溢れる。
 シノが、自分をそんな風に思っていたなんて―――
「違うっ、そんなつもりじゃ…」
 それ以上聞かずに、ドアを開けて車を降りた。
 足早に車を離れるのに、追いかけてきたシノに腕を摑まれる。
「透子っ、」
「離してよっっ」
「いいから聞けって!!」
 両腕を掴んで叫ぶように言ったシノを睨み付ける。
「…悪かった。でも、ホントにそんなつもりじゃ―――」
「離して。」
「透子っ」
 振り解こうとする腕を、シノが更に掴む。
「聞けよ! 大事な事なんだ!!」
 叫んで、シノが大きく息を吐き出した。

「高橋は、瀬尾さんとこに行ってないんだ。」
 思わず顔を上げると、シノが眉をしかめる。
「厳密に言えば、瀬尾さんに断られたんだ。建築士も持ってないヤツは、バイト位でないと雇えないってな。」
 だから、今、アイツの所在が知れない、そこまで言ってから、シノが顔を覗き込んできた。
「心配なんだよ、お前に何かあったらって…」
 そう言うシノの顔は、痛ましそうに歪んでいる。

 多分、その気持ちに嘘は無いだろうと思う。
 わかってる、でも、―――わかってないよ、シノ。

「でもそれも、あたしのせいなんだよね?」
 唇だけで微笑んだ。シノが再び息を呑む。
 ゆっくりと、シノの腕を外して、顔を上げた。

「あたしは、シノを友達だと思ってた。でも―――」

 シノにとって、あたしは対等に向き合える存在では無かったんだね?

「…透子…」
 それ以上、言葉を無くして立ち竦むシノに背を向ける。

 くっ―――と、背筋を伸ばして。

 真っ直ぐに、前を向いて、歩いた。
 せめてもの、矜持を見せてやりたくて。 
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