花の名前
思いの行方

1

 海上に浮かぶチャペルで永遠の誓いを―――

「…これって、女子的にはスゲェんすかね?」
「まあ、好みは人それぞれだから…」

 シノが持ってきた新しい案件は、海を臨む小高い丘に建つ(予定の)、総合結婚式場だった。



 教会から帰ってくると、八木君が雑事に追われていた。社長曰く、これに社を挙げて取り組むから、小さいのは今週中に片付けろ―――という事らしい。

「とりあえず、明日、施主さんとこに社長が西島(建設)さんと一緒に行ってくるそうです。」
「そうなんだ、八木君は行かないの?写真撮ったりとか…現地見てくるんだよね?」
「いや、だって、初島さん1人に出来ないでしょ。」
「ええ?」
「帰ってきたら倒れてたとか、たまったもんじゃないっすからね。」
 そんな事ある訳無いじゃない、と笑いながら言ったのに、八木君の目は真剣だった。
「明日、役所に持ってくのは、これで全部です。だから、今日はもう帰りましょう。」
 真っ直ぐな瞳をしばらく見つめてから、ふ、と微笑んだ。
 ホントに良いコだな、と思う。
「うん、わかった。これだけ、メールしたらね。」
「初島さん~っっ」
 まあまあ、と宥めながら座らせた。
「コーヒー淹れてあげるから、それ飲んで、八木君は先に帰って。明日早いんでしょ?社長は、あのカメラ苦手なんだから、一緒に行ってあげてよ。」
 そう言って、保温ポットの再沸騰ボタンを押して、ドリッパーにフィルターを入れる。豆は社長がうるさいので、結構良いのを買っているから、ポットのお湯で入れるのは勿体ないけど、まあ、いいか。
 お湯を馴染ませて蒸らしていると、八木君が近くに寄ってきた。
「…前は、インスタント派でしたよね。」
 黙ったまま、ドリッパーでふっくらと蒸れてきた豆を見つめる。基本的に食べ物に対する拘りなんてものは持ってなかった―――以前は。
「良く行く店で飲んだコーヒーが美味しくてね…それで…」
 もちろん、嘘じゃない。淹れてくれたのは、亜衣子サンじゃなかったけど。

「…何か、あったんすか?…同居してる、彼氏と…」
 思わず顔を上げた。同居人がいる、とは言ったかもしれないけど―――。
 そりゃ、わかりますよと言って、八木君が肩を竦めた。
「たまたまっつーか、電話してるの聞いて。…正直、ビックリしたっつーか。」
「ビックリ?」

「声が、全然違ってたから。」

 声―――?
「大丈夫…じゃなさそうっすね。」
 何が…と聞く代わりに見つめ返すと、また肩を竦める。
「だって、初島さんなら率先して現地行くでしょ?…いつもなら。」
 ハッとして言葉を無くした自分の手からカップを取ると、じゃ、お先っす―――と言って、八木君は部屋を出て行った。


 半ばぼう然としながらも、自分のカップにもコーヒーを淹れて、デスクに戻る。
 脇机に、結婚式場の資料を置いていた。
            

 目前に広がる海の遠景を利用する、と社長が説明していた。チャペルの周りに水盤を設けて、あたかも水上に浮かんでいるかのように見せたい、と。

 いつもだったら、それだけでワクワクしていたに違いない。
 頭の中に、光溢れるチャペルを思い描き、それをどう実現させるか―――資料を集め、現地に行って、スケッチを取る。

 いつもだったら、そうしていた、と、自分でも思う。


 一瞬、目を閉じて、資料を元に戻した。実際今は他にやる事が沢山あった。
 早々に送られてきた移植する植栽のリストに視線を落とし、表計算ソフトを立ち上げる。敷地の配置図と、撮ってきた画像を添付した一覧を作るつもりだった。

「花木は成木を手配するのが難しいから、それを優先した方がいいよ~。」
 と、シンジ君が言っていた事を伝えていたので、リストの丸印も花の咲く木が殆どだ。
 沈丁花に金木犀、椿に、“蝋梅”―――

 どなたか、お見せしたい方がいらっしゃれば、と。
 そう言った牧師先生の顔が蘇る。

 もし―――と、考える。
 もし、順番が違っていたら、どうしていただろう。

 カズと暮らしたのはせいぜい2ヶ月程だ。
 出会ってからでも、まだ1年経ってない―――なのに、どうしてなんだろう。

 あの日、カズは何も言わずにバイクで家を出た。

 だから、それが答えなんだと思って、着替えとノートパソコンを持って、実家に帰った。
 あれからずっと、連絡を取っていない。メールも、電話も、しなかったし、してこなかった。

 ―――ここを、出るよ。

 そう言った時、何か言ってくれるんじゃないか、と期待していた事に、後から気が付いた。
 でも、カズがそうしなかったのは、気付いていたからだ。きっと。

 シノがした事に、傷付いた。
 裏切られた気分だった。
 もちろん、同意の上じゃなかった。

 それでも、死にたくなる程絶望した訳でもなければ、顔も見たくない程、嫌悪した訳でもなかった。
 少なくとも、好きだと言ってくれた気持ちが嘘じゃない事が、わかる程には真摯だったと思う。
 ―――ただ、ベクトルが違っていただけで。

 もしカズがいなかったら、シノを受け入れていたんだろうか。
 黄色い花の画像を見ながら、そう考えて、でも、瞬間、思い浮かんだ顔に、苦笑した。

 牧師先生は、何て言ってたっけ…確か、そう、“知る人ぞ知る”―――今でも普通に使う言葉が、和歌に詠まれるほど昔からあったという事が不思議だと思った時に、また、既視感を覚えた。

 トーコさんらしいね…と言って、儚げに笑った。

 ホントだったら、見えてなかったかも知れない星を、今、カズは何処で見ているんだろう。
 そう思った瞬間、きゅっ…と胸が撓った。

 順番じゃ、ないのだ。

 シノを受け入れられない事を、申し訳なく思っても。
 シノの事を思って眠れないほどに胸が痛む事は、きっと、無い。

 星を見て
 花を見て
 雪を見て

 たわいないことばかり話していた気がする。
 作ってくれたカレーが美味しかった。
 時々、人の事をからかって、でも、髪を撫でる手の平は優しくて。
 抱き締めてくれる腕が、意外に力強い事も。
 触れあった肌の滑らかさも。
 鼻先を寄せた耳元の香りも。

 思い出すと、切なかった。

 USBケーブルを出して、パソコンと携帯を繋ぐ。
 モニターに映っていた花の写真を、メールに添付して送信した。タイトルも、何も無しに。


 しばらく待って、エラーメッセージが返って来なかったのを見届けてから、携帯を机に置いて、仕事の続きに戻った。
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