花の名前
2
かた…と物音がしたような気がして、顔を上げた。
他に人気のない室内は、まだ3月なだけあって、エアコンを入れても足元が冷える。時計を見ると、22時を回っていた。
バレたら八木君に怒られちゃうな…と思いながら、出来上がった表を打ち出して、チェックする。貰っていたシンジ君の名刺にあったアドレスを打ち込み、表を添付して送ってから、パソコンの電源を落とした。
集中していたせいで、すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干して立ち上がる。湯沸室に入ると、八木君のカップが置いてあった。
部屋で飲んでから行けば良かったのに…と苦笑しながら一緒に洗って水切り籠に伏せ、事務室に戻ると、机の上で、携帯がぶるってバイブ音を立てている。
慌てて駆け寄り、広げた所で固まった。
カズ―――と、表示されたディスプレイに、息を呑む。
2回、3回…振動を続ける携帯を持つ手が震える。もう2回振動したところで、通話ボタンを押した。
「…し、もし…?」
声が掠れて、小さくなる。
喉がカラカラになっているような感じを覚えて、ごく…と唾を飲み込んだ。
「カズ…?」
辛うじて出した問いかけにも、返事は無い。
外に居るんだろうか…遠くでタイヤの音がする。
ふぅ…と、ため息のような微かな息遣いに、胸が撓った。
誰か、見せたい人がいれば―――と言われて、思い浮かんだのは、カズだった。
でも、ただそれだけでメールしてしまったのは、間違いだったんだと、そう気付かされて、
「…ゴメンね?」
と、いう呟きに、今度こそハッキリとため息が聞こえた。
「それは、何の、ゴメン?」
1ヶ月ぶりのその声は、低くて何処か冷たく聞こえる。
当然だとわかっていても、泣きたい気分になって、でも、ここで泣く権利なんて自分には無いから、堪えるようにごくりと息を呑んだ。
「…メール、して、ゴメン。」
「―――そっちなんだ…」
再びため息をつくと、カズが耳を変えたのだろうか、微かな衣ずれの音がした。
「…今、何処にいるの?」
「え…、…会社…だけど…」
「そうじゃなくて…、―――アイツと、住んでるの?」
「っ、まさかっ」
思わずムキになって言ってしまう。それが言い訳めいてる事に気付かないまま、実家にいるよ、と伝える。
「…プロポーズ、されたんだよね?」
「…うん…」
それは本当だったから、素直に言うと、またため息が聞こえた。
迷惑なのだ、と、今さらながら気が付く。
ホントに、デリカシーが無いにも程がある…そう思った途端、唇に乾いた笑みが浮かんだ。
―――やめよう、こんなの、らしくない。元々、向いてないのだ、こんな事に。
思い切るように、すう…と、大きく息を吸い込んだ。
「ゴメンね、もう、送らないから―――」
「トーコさん」
遮るように言われて、言葉を切った。カズは一拍置いて、今度は吐き出すように大きく息をついた。
「―――なんで、この花…送ってきたの?」
意外な言葉に、少し肩の力が抜けた。
「…今日、教会に行ってきて…」
「教会…」
「末には、取り壊しになるから、色々、話をしに…」
ああ…と微かな応えが返る。
「蝋梅って、言うんだって。梅じゃないらしいけど…」
そこまで話して、ふと、牧師先生の顔が蘇り、反射的にふ…と微笑んでしまった。
「高校の、先生だったんだって…」
何だったっけ、色々呟いてた―――あの時口にしたのは…
「知る人ぞ知る…って、和歌、かな? 知ってる?」
一瞬の、沈黙。
「…色をも香をも、…知る人ぞ知る…」
「ああ、うん、そんな感じだった。…それで…」
言わない方がいいのかもしれない、そう思ったけれど、でも―――最後、だから。
「カズなら、喜ぶんじゃないかなって、思ったんだ。」
もしその場にカズがいたら、きっと、牧師先生と話が弾んで、帰れなくなったに違いない。そしてそれを呆れながらも、側で聞いて、もう帰ろうよって言いながら、一緒に―――
そう、思った途端、ぽつ…と、雫が零れて、落ちた。
ぎゅっ…と、目を瞑って、こみ上げてきたものを飲み込む。
側にいたかったな…と思う。
また、星を見に行きたかった。
美味しいご飯を食べて、どうでもいい話をして、たったそれだけで良かった。
そうしたら――――――
「トーコさん…」
聞き取れないほどに低い声に、ハッとした。
「…ゴメン」
身勝手さに気が付いて、頰を拭った。良かった、電話で。
「ホントに、ゴメンね。もう、しないから。」
元気で―――そう言おうとした時、ガタンッ、と何かがぶつかったような音が、フロアに響いた。
驚いて顔を上げて見回した。
もちろん、誰もいない―――けれど。
社長室の、ドアが開いていた。
開いて、いたんだっけ―――?
何だか酷く胸が騒いだ。
当然ながら、部屋の中は暗い。
ごく、と息を飲んで、ゆっくりとドアに近付く。
内開きのドアのノブを、そっと握って、軽く押した、その瞬間。
グイッ―――と、強くドアが引かれ、あっ、と思う間もなく体制を崩して倒れ込んだ。
同時に手から離れた携帯が、音を立てて床で跳ねる。
床に手をついて起き上がると、直ぐ側に、スーツを履いた足があった。見上げた先に、息を呑む。
ここに居るはずの無い、人。
「―――高橋、さん…」
他に人気のない室内は、まだ3月なだけあって、エアコンを入れても足元が冷える。時計を見ると、22時を回っていた。
バレたら八木君に怒られちゃうな…と思いながら、出来上がった表を打ち出して、チェックする。貰っていたシンジ君の名刺にあったアドレスを打ち込み、表を添付して送ってから、パソコンの電源を落とした。
集中していたせいで、すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干して立ち上がる。湯沸室に入ると、八木君のカップが置いてあった。
部屋で飲んでから行けば良かったのに…と苦笑しながら一緒に洗って水切り籠に伏せ、事務室に戻ると、机の上で、携帯がぶるってバイブ音を立てている。
慌てて駆け寄り、広げた所で固まった。
カズ―――と、表示されたディスプレイに、息を呑む。
2回、3回…振動を続ける携帯を持つ手が震える。もう2回振動したところで、通話ボタンを押した。
「…し、もし…?」
声が掠れて、小さくなる。
喉がカラカラになっているような感じを覚えて、ごく…と唾を飲み込んだ。
「カズ…?」
辛うじて出した問いかけにも、返事は無い。
外に居るんだろうか…遠くでタイヤの音がする。
ふぅ…と、ため息のような微かな息遣いに、胸が撓った。
誰か、見せたい人がいれば―――と言われて、思い浮かんだのは、カズだった。
でも、ただそれだけでメールしてしまったのは、間違いだったんだと、そう気付かされて、
「…ゴメンね?」
と、いう呟きに、今度こそハッキリとため息が聞こえた。
「それは、何の、ゴメン?」
1ヶ月ぶりのその声は、低くて何処か冷たく聞こえる。
当然だとわかっていても、泣きたい気分になって、でも、ここで泣く権利なんて自分には無いから、堪えるようにごくりと息を呑んだ。
「…メール、して、ゴメン。」
「―――そっちなんだ…」
再びため息をつくと、カズが耳を変えたのだろうか、微かな衣ずれの音がした。
「…今、何処にいるの?」
「え…、…会社…だけど…」
「そうじゃなくて…、―――アイツと、住んでるの?」
「っ、まさかっ」
思わずムキになって言ってしまう。それが言い訳めいてる事に気付かないまま、実家にいるよ、と伝える。
「…プロポーズ、されたんだよね?」
「…うん…」
それは本当だったから、素直に言うと、またため息が聞こえた。
迷惑なのだ、と、今さらながら気が付く。
ホントに、デリカシーが無いにも程がある…そう思った途端、唇に乾いた笑みが浮かんだ。
―――やめよう、こんなの、らしくない。元々、向いてないのだ、こんな事に。
思い切るように、すう…と、大きく息を吸い込んだ。
「ゴメンね、もう、送らないから―――」
「トーコさん」
遮るように言われて、言葉を切った。カズは一拍置いて、今度は吐き出すように大きく息をついた。
「―――なんで、この花…送ってきたの?」
意外な言葉に、少し肩の力が抜けた。
「…今日、教会に行ってきて…」
「教会…」
「末には、取り壊しになるから、色々、話をしに…」
ああ…と微かな応えが返る。
「蝋梅って、言うんだって。梅じゃないらしいけど…」
そこまで話して、ふと、牧師先生の顔が蘇り、反射的にふ…と微笑んでしまった。
「高校の、先生だったんだって…」
何だったっけ、色々呟いてた―――あの時口にしたのは…
「知る人ぞ知る…って、和歌、かな? 知ってる?」
一瞬の、沈黙。
「…色をも香をも、…知る人ぞ知る…」
「ああ、うん、そんな感じだった。…それで…」
言わない方がいいのかもしれない、そう思ったけれど、でも―――最後、だから。
「カズなら、喜ぶんじゃないかなって、思ったんだ。」
もしその場にカズがいたら、きっと、牧師先生と話が弾んで、帰れなくなったに違いない。そしてそれを呆れながらも、側で聞いて、もう帰ろうよって言いながら、一緒に―――
そう、思った途端、ぽつ…と、雫が零れて、落ちた。
ぎゅっ…と、目を瞑って、こみ上げてきたものを飲み込む。
側にいたかったな…と思う。
また、星を見に行きたかった。
美味しいご飯を食べて、どうでもいい話をして、たったそれだけで良かった。
そうしたら――――――
「トーコさん…」
聞き取れないほどに低い声に、ハッとした。
「…ゴメン」
身勝手さに気が付いて、頰を拭った。良かった、電話で。
「ホントに、ゴメンね。もう、しないから。」
元気で―――そう言おうとした時、ガタンッ、と何かがぶつかったような音が、フロアに響いた。
驚いて顔を上げて見回した。
もちろん、誰もいない―――けれど。
社長室の、ドアが開いていた。
開いて、いたんだっけ―――?
何だか酷く胸が騒いだ。
当然ながら、部屋の中は暗い。
ごく、と息を飲んで、ゆっくりとドアに近付く。
内開きのドアのノブを、そっと握って、軽く押した、その瞬間。
グイッ―――と、強くドアが引かれ、あっ、と思う間もなく体制を崩して倒れ込んだ。
同時に手から離れた携帯が、音を立てて床で跳ねる。
床に手をついて起き上がると、直ぐ側に、スーツを履いた足があった。見上げた先に、息を呑む。
ここに居るはずの無い、人。
「―――高橋、さん…」