花の名前

3

 どうして、ここに―――

 咄嗟に頭が回らなかった。
 ドアから入る光を背にして、目の前に立つ男はスーツを着ているけど、ネクタイはせず、胸元が開いて少しはだけている。
 無精ヒゲが生えているのだろうか、元々色白なせいで目立っていた顎の青さが、更に濃くなっていた。
 床に手をついたまま、思わず後ずさる。
 薄暗い中、目が、異様にギラギラと光って見えるのはなぜだろう? ニヤリ、と、浮かべた下卑た笑みに、ぞわりと、本能的な恐怖が沸き起こった。

「残業中に、彼氏と電話とか、いいご身分だよなぁ?」
 そう言って、一歩、こちらに踏み出してくる。
「あの優男か?それとも篠崎か?―――どっちにしても、物好きだよなぁ、こーんな薄っぺらい女の、どこがいいんだ?」
 腰に手をやって、前屈みに覗き込んでくる顔を睨み付け、グッと手を握りしめた。
「こんな所で、何をしてるんですか?」
 思ったよりも、強い声が出た。更にお腹に力を込める。
「そもそも、どうやって入ったんです?」

 事務所が入っているオフィスビルは、午後8時に正面玄関の自動ドアが施錠される。以降は通用口で守衛さんに社員証を見せなければ入れないハズだった。
 すると、高橋さんはフンと鼻を鳴らして肩を聳やかすと、上着の内ポケットからカードホルダーを取り出した。それを見て、あ、と思わず声を上げた。 

 高橋さんはメールで辞表を送りつけて辞めたから、保険証とかそのままで、電話しても出ないと、佐藤さんが文句を言っていたのを思い出す。
 当然、社員証も持ったままだった―――という事だ。
「まさか、今までも…?」
「な訳ねぇだろ。毎日(まいんち)遅くまで残業しやがって。」
「っ、誰のせいだと!」
「お前のせいだろーがよっっっ!!!」
 怒鳴りつけると同時に、伸びてきた腕に胸倉を摑まれ、力任せに引っ張り上げられる。
「お前さえっ、お前さえいなきゃ―――」
 襟を両手でギリギリと強く握り込みながら、唸るように言う彼は、ハッキリとわかるほど酒臭く、同時に、体臭なのか、何とも言えないすえた匂いがする。

 不意に、胃から迫り上がってくる物を何とか堪えながら、顔を背けると、更に締め付けが強くなった。
「お高くとまりやがって、何様なんだよ、お前はよ!」
 叫びながら揺さぶられると一層吐き気が強くなる。堪らず、襟を掴む手に爪を立て、力任せに引っ掻いた。

 ザッッ―――と音がして、力が緩んだ隙に相手の胸を突き飛ばす。うわっ、と声を上げて蹈鞴を踏んだ、その股間を目がけて足を蹴り上げた。

「―――っっ!!!」

 声にならない声を上げて、前のめりになったのを尻目に、社長のデスク裏に回り込む。途端、何かに足を取られて、再び床に倒れ込んだ。
 ジャラッ―――という音が響く。体を起こして足元を見ると、そこにひっくり返っていたのは、手提げ金庫だった。小口現金用に引き出したお金を入れてあるのは知っていたけど、なぜ、こんなとこに―――!?
 ハッとして、デスク横の大きなキャビネットを見ると、下段の扉が開いて、さらにその中にある金庫も開いている。
 その中に、さっきの手提げ金庫や社印など、大事なものが入っているのは社員なら当然知っているけれど、開け方までは知らないはずだ。
 下段の扉も、契約書などを入れるから、社長と佐藤さん以外には持っていない鍵がかかっていたはずなのに…。

 呆然としていて、咄嗟に判断が遅れた。
 近付いた気配に振り向くと同時に、強く押されて床に倒れ込む。次の瞬間、

 バシッッ―――!!

 頰に叩き付けられた衝撃に、火花が散った。

「こんの、女(アマ)―――!!」

 叫びと同時に、再び腕が振り下ろされる。あまりの衝撃に目の前が白く弾け、思考が止まる。
 更に立て続けに2度、頰を叩かれると、口の中に鉄の味が広がった。それが何なのか、何をされたのか、考えることも出来ずに呆然と見上げると、目を血走らせた男が、覆い被さるようにのし掛かっている。
「…かに、しやがって…!!」
 体を震わせながら、唸るように叫ぶと、再び胸元を掴み、力任せに左右へ引っ張る。鈍い音と同時にシャツのボタンが弾け飛んだ。

「っ―――!!!」

 全身が怖気立った。闇雲に腕を振り回し、体を捻る。
 その内何発かが当たり、「うるせえっっっ」という怒鳴り声と共にまた頰を叩かれる。怯んだ隙に両腕を摑まれ、頭の上にまとめて押さえ込まれた。

「っ、い~いざまだな!! ああっ?!」
 激しく肩で息をしながら、口許を歪めて笑う。大きく見開いた目は瞳孔まで開き、狂っているとしか思えない。
 ギリギリと握り潰そうとするかのように腕を摑まれ、腹の上にのし掛かかられて、身動きする事も出来なかった。
 何より、頰を叩かれたショックが大きすぎて、全身が抑えようもなくガタガタと震えて止まらない。
 声を出すことも出来ない様子を見て、男が更に顔を歪めて笑った。

「…“彼氏”に顔向け出来ねぇ体にしてやるよ。」

 言うなり、腕を押さえ込むのと反対の手で、腰のサイドファスナーを引き下ろした。
「なっ、やめっ」
 必死で腰を捻るも、そのまま開いた場所から服の中に手を突っ込まれ、ざらざらとした手で臀部を摑まれる。瞬間、肌が粟立った。

「いやっっっ、いやっ、やめてっっ!!! 高橋さんっっ!!!」

 悲鳴だった。恐怖に駆られて頭を振り、体を捻ろうと藻掻く。

 厭だ、厭だ、厭だ―――!!!

 気が狂いそうだった。
 いっそ今すぐ死ねたらいいのに―――

 深い絶望の中で、そう思った時。
 パンツの縁を掴んだ手に、下着ごと引き下ろされ、そのまま脚を持ち上げられた。

「いや――――――っっっ!!!」
「トーコさんっ!!!」

 怒鳴り声と同時に、のし掛かった体が離れる。

「なっ」
 と言う声がした次の瞬間、バキッという音と共に衝撃が当たり、体の上の重みが離れた。いつの間にか閉じていた目を開けると、窓際に男の体が転がっていくのが見える。
 何が起こったのかわからずにいる体を、強い腕に抱き起こされ、反射的に体が引き攣った―――けれど。

「トーコさん…」

 泣きそうな顔で覗き込む顔を見た瞬間、体中の力が抜けて、同時に、意識を手放した。
< 39 / 46 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop