花の名前

4

十数えていたのかもしれない。

 押し当てていた唇を離して、ふ、とカズが微笑む気配がする。
「落ち着いた?」
 言われて、はっと目を開けると、まだ鼻の先にカズの顔があって、思わず息を呑んだ。
 カズは“いつものように”ニコッと微笑むと、顔を離して鍋に向き直る。いつの間に切っていたのか、再びガスに火を付けて炒め始めた。
「先にお風呂使っておいでよ。俺もこれ煮込み始めたら入るから。」
 半ばぼう然としながら、ああ、うん…と辛うじて返事をすると、カズが視線だけこっちに向けて微笑んだ。
「いつかやってみようと思ってたんだ。」
 その言葉に目を見開く。―――何を?
 声にならない声に、カズが平然と応えた。
「過呼吸の応急処置に、キスがいいんだって、書いてあったから。」
「―――は?」
 応急処置?それでキス?
「まぁ、赤の他人にはしないだろうけど。」
「…当たり前でしょ。」
 何考えてるんだか…半眼で睨みつけると、カズが悪戯っぽく笑った。
「ほら、早く入ってきてよ。明日は仕事でしょう?俺も朝から学校行かないといけないし。」
 どの口が言ってんのと突っ込みたい気持ちを辛うじて堪え、背中を向けて、リビングを出た。
 階段を上ってるうちに、ふつふつと怒りがこみ上げる。
 ドアを閉める音が大きくなったのは仕方がない。
 背中をドアに預けてため息を付いた。
 年下のくせに、女慣れしすぎだろうと思う。
 もっとも、カズからしてみれば、いい年して“何も知らない”自分の方がおかしく見えているのかもしれないけど、それにしても。
 早まったかな―――そう思いながら、手の甲で唇を押さえる。

 目を閉じて、深呼吸をする。
 落ち着いて、大丈夫。大したことじゃない。
 だって、“カズ”だよ?
 乾いた笑みが、口許に零れた。



 カズが見つけてきた部屋は、メゾネットタイプの古いアパートで、築50年という驚きの物件だった。
 1階が店舗として使える土間になっていて、その奥にリビングダイニング、トイレ、浴室があり、2階に2部屋あるという造りで、広い割に古いせいか家賃が手頃だった。
 なぜ土間のあるところにあえてしたか、というと、カズが乗っている単車を外に置いておきたくなかったからに他ならない。
 叔父から譲られた、というそれは、カズの穏やかそうな外見からは想像もつかない程ワイルド(?)な、モトクロスバイクだった。

「どうぞ?」
 と言って渡されたヘルメットを手に立ち竦んだ。
 やっぱり、タクシーで帰るべき?
 そう思ったのが顔に出たのか、“彼”が苦笑した。
「店長に借りてきましょうか?」
 その言葉に、腹を括る。それでなくても迷惑をかけたのだ。その上さらにお金貸して下さい―――とは、言えない。

「すみませんね、苦学生なもんで。」
 と言った彼は、タクシーで帰るのに現金の持ち合わせが無いと言うと、じゃあ、送りますよ、と何でも無いといった体で申し出てくれた。
「え、でも…」
「起こさなかった俺も悪いし。」
 でも、よく寝てましたね―――と言われて顔が火照る。
 自分でもびっくりだった。最近は特に、よく眠れない日が続いていたから。
 彼の腕で気を失ってしまった後、空いていたという個室の座敷で目を覚ました時にはもう閉店時間で、午前1時を回っていた。
 慌ててお礼を言い、帰るなら大通りまで送るという彼に、それともタクシー呼びましょうか?と聞かれて、財布の中身を思い出し、真っ青になった。
 普段からあまり現金を持ち歩かない主義だった。
 クレジットカードも然り、で、今日は会社の歓迎会だったから、持っていたお金は会費を徴収されたお陰で、2000円程度しかなかったのだ。

 パンツスーツの裾を、マジックテープがついたベルトで押さえてもらってから、バイクを少し傾けて促されるままにシートを跨いだ。
「出来れば、カーブの時は、一緒に体を傾けてくれると助かります。」
 じゃ、しっかり掴まって―――と言われ、躊躇いながら腕を回すと、腕を前に引っ張られ、しっかりと巻き付ける状態になった。自然、頰を背中に押しつける形になる。
 これはちょっと困った―――と、自分にしては女らしく動揺したのもそこまでだった。

 ちょっと速い自転車みたいなもんですよ―――と、彼は言った。

 それは、この男、深山和臣が、見かけ通りの優男ではないと知らしめるのに十分な発言だった事を、後で思い知る事になるとは、その時は全く気が付かなかった。
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