花の名前

3

「おっ、おいっ、大丈夫かっっ?!」

 焦って叫ぶ声が遠くに聞こえる。
 胸が苦しい。
 酸素を求めて、激しく呼吸を繰り返すのに、少しも楽にならない。
 どうしよう、どうしたら―――ぐらぐらと周りの空間が揺らぎ始めた、その時だった。

「落ち着いて。」
 静かな声が耳に響くと同時に、ぼふっ…と、顔に何かが押しつけられる。
「1回息止めましょう。吸わないで。」
 吸うも何も、後ろ頭を摑まれて、顔を塞がれているのだから、考える間もなく咄嗟に口を噤んだ。
「いち、に、さん、し…」と数を数えながら、トントンと背中を叩かれる。
 じゅう、まで数えたところで、頭を押さえていた手が離れた。口を噤んだお陰か、少し動悸が治まっている。
「深呼吸はダメですよ。普通に、ゆっくり、鼻で呼吸して下さい。」
 促されるまま鼻から吸って、目を開けると、目の前に白い布地が見えた。はて、これは何だろう…?
 ボンヤリと顔を上げると、その先に柔らかな笑顔があった。
「大丈夫ですか?」
 綺麗な顔だな…と思った次の瞬間、一気に覚醒した。
「ぅわっっ―――」
 と、およそ女らしくない声を上げて、突き飛ばす…いや、して、離れたつもりだったけど、途端にグラリと辺りの景色が回って、膝が崩れた。
 そのまま尻餅を着くと思った体は、力強い腕に抱き留められて、再びさっきの白い布地に包まれる。
「ちょっと、横になった方が良さそうですね。」
 その言葉が終わらないうちに、膝裏に腕が回って、体が浮き上がった。支えやすいように軽く揺すり上げられると、肩に顔が半分埋まる。
「じっとしてて下さいね、落としちゃったらいけないんで。」
 そう言う声がちょっと遠いな…と感じながら、引かれるように瞼が落ち、そのまま意識を手放した。


 メインになる大きな窓の外に、花壇を作りたいのだと言っていた。クリスマスなどのイベントの時に、デコレーションしてお客様に楽しんで欲しいのだと。
 なのに、予算が足りないと言って、植え込みは作ったものの、玉竜と言われるグラウンドカバー用の苗を植えて終わりになってしまった。

 季節毎に花が咲いて、良い匂いのするものがいい…そう言っていたのに。
 施主(オーナー)の2人は、沢山のアイディアを持っていた。これから始める、新しい店で、あれをしよう、これもいいね…と、顔を寄せ合って、楽しそうに話していた。

 予算が足りないというなら、もっと、他の所で削れば…そう言っても、社長には届かなかった。

 まだ建築士の資格も無い“雑用係”の声は、誰にも。

 だって、このお店を開くのは私達じゃない。
 そう訴えたのに、奇妙なものを見るような顔をされた。
 素人さんの言いなりになってどうするんだ?
 工期だってあるのに、そこをしっかり説得するのが、お前の仕事だろ?―――そう言われて。

 御免なさい―――
 悔やんでも悔やんでも、もう遅い。

 次のクリスマスを待たずに、その店は閉まってしまったから。
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