花の名前
6
“カズ”は、ひと言で言うと、ヘンなヤツ―――だった。
「苦学生って言うから、母子家庭とかなのかと思ったら違うし。」
片手に持ったジントニックのグラスをゆらゆらと揺らす。
だいぶ氷が溶けて、ちょっとアルコールが薄まったものを、一気に飲み干した。
カズの家は、割と近所にある大きな総合病院だった。
所謂、院長先生の息子で、御曹司―――って、聞いたときは目が点になってしまった。
それでどうして居酒屋でバイトしてんの?
「学費を自分で出してるからね。」
「自分で?全部?」
「うん、国文学科受けるんだったら、学費は出さないって、言われちゃってさ。」
平然とした顔でさらりと言われ、言葉を無くした。
「どうしても嫌なら医者にならなくてもいいが、国文学科は無いだろうって。」
一体何の仕事をするつもりだ?学者にでもなりたいのか?と言われたらしい。正直なところ、お父さんの気持ちもちょっと分からなくもなかったけど。
バブルが弾けて、就職率はドンドン下がっている。
企業も即戦力とまでは言わなくても、大学で古文を勉強しました―――と言われて、じゃあこの仕事をお願いします…と直ぐに思いつかない学生は採用し難いだろう。
「何か、なりたいものとかあるの?」
「ううん? 無いとダメかな?」
ニコッと微笑む―――その顔を思い出して、ため息をついた。
良く分からない“男の子”だと思う。
真面目なのか不真面目なのか。
優しいのか、優しくないのか。
とりあえず堅実な教師の職に就いたけれど、
「教師なら、普段でも本読む余裕があるよね。仕事の一環として。」
なんて事を言っていたから、間違っても熱血教師なんてものにはならないだろう。
親とは勝手に大学を決めて以来、殆ど会話していなかったらしい。母親とは必要な事だけ携帯電話で(!)話してたらしいけど、それも可笑しいと思う。
本人は、その前からも別にそこまで仲良いわけでも無かったから、向こうも特には気にしてないよ、と言うけど、同じ家に居ながら会話が無いという状態が、一般庶民(パンピー)には良く分からない。
「熱が、無いのよね…。」
そう言う亜衣子サンは、何処か寂しげな顔をしている。
送ってもらったお礼を何か…と言ったら、行きたい店があるのだけど、1人では行き辛い場所にあるから一緒に行ってくれないかと言われて、やって来たのがここだった。
何しろ繁華街にあるビルの一室で、所謂バーとかスナックとかいう、サラリーマン御用達の店が沢山入っている中にあったから、確かにちょっと学生には敷居が高いかもと思わせた。
なのに、中に入った途端、
「あら、久しぶり~、どうしたの?和臣くん。」
と、言われて、呆気に取られるしかなかった。
聞けば、亜衣子サンは元々、病院の近くでイタリアン風(笑)のダイナーを開いていたらしい。
カズは高校の時にそこでバイトをしてたのだが、亜衣子サンが体力的に広い店を切り盛りするのがキツくなったとかで店を移転してしまい、それ以来の再会だったようだ。
「いっつもニコニコしてるし、あの見た目でしょう? 結構女の子に声かけられてたのよね~。」
ほっそりとしていてガツガツしたカンジがまるで無いし、顔もまぁ整っている…とくればムリも無いか―――と思っていたら、亜衣子サンから爆弾を落とされた。
「詳しく聞いたことは無いけど、そこそこ“遊んでた”んじゃないかしらね~。」
「えっ?!」
遊んでた?!って、何それ?!
「遊んでた…っていうと語弊があるかな~、でも本気じゃないカンジっていうか…」
要するに、来る者拒まず去る者追わず…
「あ、でも、真面目で一途そうなコは断ってたわよ~」
亜衣子サン、それ、全くフォローになってないですよ。
何だか頭が痛くなってきた…まあ、別にいいんだけど。
だから、“あんな事”も平気で出来たんだろうな…と、遠い目をしていると、亜衣子サンがちょっと焦ったように続けた。
「まあまあ、過去の話だし、男の子はちょっと悪い方が良いわよ~。」
「まあ、別に…カズが遊んでても私には関係ないから。」
「えっ、付き合ってるんじゃないの?」
「ないですよ。」
ホントの事なので、肩を竦める。
あのキスはカウントに入れるべきじゃないだろう。応急措置だってカズも言ってたし。…発作は治まってたけど。
「なのに、どうして同棲…」
「同居です。」
被せるように、キッパリと言い切った。
カレーの対価は何にしようか?と聞いたら、何が良い?と逆に聞かれてしまった。
「…週末の、トイレ掃除、とか?」
「じゃあ、それでいいよ、ヨロシク。」
ニッコリと微笑まれて、肩の力を抜いた。…まさかキスとか言わないよね?と思っていたけど、まあ無いよね、カズだし。
「ここ片付けとくから、お風呂入ってきたら?」
「うん、あ…もしかして、お湯抜いちゃった?」
「え、うん。」
だって、嫌じゃない?と聞いたら、勿体ないよ、と御曹司様にあるまじきお言葉を頂いて絶句する。
「うーん、でも、とりあえず使ったら抜こうよ。来月の水道料金見て考えよう?」
「ん、わかった。」
そう言って、踵を返したカズが、ああ、と扉の所で振り向いた。
「一緒に入るんだったら構わない?」
「はい?」
一緒に入る? 誰と誰が?
「そしたらお湯も緩くならないし、一石二鳥…」
「何バカ言ってんの…とっとと入って。」
げんなりしながら言うのに、カズはいつものクスクス笑いだった―――思い出して顔を顰めた所で、入り口の扉が開いた。
「あら、いらっしゃい。」
「どうも。」
噂をすれば…だ。今日は大学の友達と飲み会だったんじゃなかったの?
「他のヤツらはまだ飲むって言うから。多分、ここ来てるだろうと思って。」
何だそれは?と見返すと、カズが意味ありげに笑う。
「もう、10時過ぎてるよ、トーコさん。」
「えっ、嘘。」
二つ折りの携帯を開いて呻いた。―――しまった、ちゃんとバスで帰るつもりだったのに!!
「何回かかけたんだけどね?メールも、どうする?バスにする?って。」
確かに…ずっとマナーにしてるから気付かなかった。携帯してる意味ないよね?とまた笑われる。くそう…
「ほら、帰ろう、明日も仕事でしょう?」
促されるまま会計を済ませ、開けて押さえてくれていたドアを潜った。
おかしい…こんなハズではなかったのに。
いいようにおちょくられてる気がするのは、何でだろう?
「苦学生って言うから、母子家庭とかなのかと思ったら違うし。」
片手に持ったジントニックのグラスをゆらゆらと揺らす。
だいぶ氷が溶けて、ちょっとアルコールが薄まったものを、一気に飲み干した。
カズの家は、割と近所にある大きな総合病院だった。
所謂、院長先生の息子で、御曹司―――って、聞いたときは目が点になってしまった。
それでどうして居酒屋でバイトしてんの?
「学費を自分で出してるからね。」
「自分で?全部?」
「うん、国文学科受けるんだったら、学費は出さないって、言われちゃってさ。」
平然とした顔でさらりと言われ、言葉を無くした。
「どうしても嫌なら医者にならなくてもいいが、国文学科は無いだろうって。」
一体何の仕事をするつもりだ?学者にでもなりたいのか?と言われたらしい。正直なところ、お父さんの気持ちもちょっと分からなくもなかったけど。
バブルが弾けて、就職率はドンドン下がっている。
企業も即戦力とまでは言わなくても、大学で古文を勉強しました―――と言われて、じゃあこの仕事をお願いします…と直ぐに思いつかない学生は採用し難いだろう。
「何か、なりたいものとかあるの?」
「ううん? 無いとダメかな?」
ニコッと微笑む―――その顔を思い出して、ため息をついた。
良く分からない“男の子”だと思う。
真面目なのか不真面目なのか。
優しいのか、優しくないのか。
とりあえず堅実な教師の職に就いたけれど、
「教師なら、普段でも本読む余裕があるよね。仕事の一環として。」
なんて事を言っていたから、間違っても熱血教師なんてものにはならないだろう。
親とは勝手に大学を決めて以来、殆ど会話していなかったらしい。母親とは必要な事だけ携帯電話で(!)話してたらしいけど、それも可笑しいと思う。
本人は、その前からも別にそこまで仲良いわけでも無かったから、向こうも特には気にしてないよ、と言うけど、同じ家に居ながら会話が無いという状態が、一般庶民(パンピー)には良く分からない。
「熱が、無いのよね…。」
そう言う亜衣子サンは、何処か寂しげな顔をしている。
送ってもらったお礼を何か…と言ったら、行きたい店があるのだけど、1人では行き辛い場所にあるから一緒に行ってくれないかと言われて、やって来たのがここだった。
何しろ繁華街にあるビルの一室で、所謂バーとかスナックとかいう、サラリーマン御用達の店が沢山入っている中にあったから、確かにちょっと学生には敷居が高いかもと思わせた。
なのに、中に入った途端、
「あら、久しぶり~、どうしたの?和臣くん。」
と、言われて、呆気に取られるしかなかった。
聞けば、亜衣子サンは元々、病院の近くでイタリアン風(笑)のダイナーを開いていたらしい。
カズは高校の時にそこでバイトをしてたのだが、亜衣子サンが体力的に広い店を切り盛りするのがキツくなったとかで店を移転してしまい、それ以来の再会だったようだ。
「いっつもニコニコしてるし、あの見た目でしょう? 結構女の子に声かけられてたのよね~。」
ほっそりとしていてガツガツしたカンジがまるで無いし、顔もまぁ整っている…とくればムリも無いか―――と思っていたら、亜衣子サンから爆弾を落とされた。
「詳しく聞いたことは無いけど、そこそこ“遊んでた”んじゃないかしらね~。」
「えっ?!」
遊んでた?!って、何それ?!
「遊んでた…っていうと語弊があるかな~、でも本気じゃないカンジっていうか…」
要するに、来る者拒まず去る者追わず…
「あ、でも、真面目で一途そうなコは断ってたわよ~」
亜衣子サン、それ、全くフォローになってないですよ。
何だか頭が痛くなってきた…まあ、別にいいんだけど。
だから、“あんな事”も平気で出来たんだろうな…と、遠い目をしていると、亜衣子サンがちょっと焦ったように続けた。
「まあまあ、過去の話だし、男の子はちょっと悪い方が良いわよ~。」
「まあ、別に…カズが遊んでても私には関係ないから。」
「えっ、付き合ってるんじゃないの?」
「ないですよ。」
ホントの事なので、肩を竦める。
あのキスはカウントに入れるべきじゃないだろう。応急措置だってカズも言ってたし。…発作は治まってたけど。
「なのに、どうして同棲…」
「同居です。」
被せるように、キッパリと言い切った。
カレーの対価は何にしようか?と聞いたら、何が良い?と逆に聞かれてしまった。
「…週末の、トイレ掃除、とか?」
「じゃあ、それでいいよ、ヨロシク。」
ニッコリと微笑まれて、肩の力を抜いた。…まさかキスとか言わないよね?と思っていたけど、まあ無いよね、カズだし。
「ここ片付けとくから、お風呂入ってきたら?」
「うん、あ…もしかして、お湯抜いちゃった?」
「え、うん。」
だって、嫌じゃない?と聞いたら、勿体ないよ、と御曹司様にあるまじきお言葉を頂いて絶句する。
「うーん、でも、とりあえず使ったら抜こうよ。来月の水道料金見て考えよう?」
「ん、わかった。」
そう言って、踵を返したカズが、ああ、と扉の所で振り向いた。
「一緒に入るんだったら構わない?」
「はい?」
一緒に入る? 誰と誰が?
「そしたらお湯も緩くならないし、一石二鳥…」
「何バカ言ってんの…とっとと入って。」
げんなりしながら言うのに、カズはいつものクスクス笑いだった―――思い出して顔を顰めた所で、入り口の扉が開いた。
「あら、いらっしゃい。」
「どうも。」
噂をすれば…だ。今日は大学の友達と飲み会だったんじゃなかったの?
「他のヤツらはまだ飲むって言うから。多分、ここ来てるだろうと思って。」
何だそれは?と見返すと、カズが意味ありげに笑う。
「もう、10時過ぎてるよ、トーコさん。」
「えっ、嘘。」
二つ折りの携帯を開いて呻いた。―――しまった、ちゃんとバスで帰るつもりだったのに!!
「何回かかけたんだけどね?メールも、どうする?バスにする?って。」
確かに…ずっとマナーにしてるから気付かなかった。携帯してる意味ないよね?とまた笑われる。くそう…
「ほら、帰ろう、明日も仕事でしょう?」
促されるまま会計を済ませ、開けて押さえてくれていたドアを潜った。
おかしい…こんなハズではなかったのに。
いいようにおちょくられてる気がするのは、何でだろう?