今宵は遣らずの雨

「御前様……かような処でなにをしておられるか。奥方様のお産は如何(いか)がなされた」

初音は御付きの供も伴わず、いきなり姿を現した兵部少輔に心底驚いた。

如何にもふらりとやってきた風情(ふぜい)で、着流し姿の大小二本差しに、雨のせいで地面がぬかるんでいるのであろう、雪駄(せった)ではなく下駄(げた)を履いていた。

いくら安芸(あき)広島新田(しんでん)藩の御屋敷が、初音の住む仕舞家の通りを挟んだすぐそこにあるとはいえ、あまりにも無防備だ。

「奥方様は、初めてのお産ではございませぬか。
……お(そば)についてあげてくだされ」

初音は懇願した。


「……初音」

兵部少輔は苦々しげに顔を歪ませた。

「そんな呼び方はするな。
おれのことは、昔のように鍋二郎(なべじろう)と呼べ」

吐き捨てるような物云いだった。

< 189 / 297 >

この作品をシェア

pagetop