今宵は遣らずの雨

()(のたま)はく…」で始まる、(から)の国の儒教の租、孔子の論語は、武家に生まれたからには必須の書である。

特に、父親のいない小太郎は継ぐものがなく、自分の力で道を切り開いていかねばならぬ。

今になって、嫡子が生まれない兄の佐伯(さえき) 忠之進(ただのしん)が、小太郎を引き取って養嗣子(あととり)にしたいとしきりに云ってくるのだが、小夜里はきっぱりと断っていた。

腹の中の小太郎ともども、文字通り一刀両断にされかかったあの恐怖を、忘れてはいないからである。

小夜里はたった一人の息子には、将来は江戸へ出て、湯島の学問所で勉学に励んでもらい、学問で身を立ててほしかった。

五代の公方(くぼう)様(徳川綱吉)がお建てになった湯島には孔子をお祀りした大成殿があるくらいなので、身に馴染ませるためにも、小夜里は小太郎がまだ赤子の時分から子守唄代わりに論語を素読していた。

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