君のことは一ミリたりとも【完】
「(もう隣で支えられないけど、仕事だけはちゃんとしなきゃ……)」
彼との思い出はどれも幸せだった。だけどその思い出を捨てて私は今前を向けている。
あの時間はもう戻ってこないけれど、少しずつでもいいから元の生活に戻りたい。
そのためなら、何にでも力を注いでやる。
「(……そういえば)」
結局唐沢に返事、してないな。
上着のポケットに入ったスマホを布の上から触る。
返事に迷って有耶無耶にして仕事に集中していたからすっかり忘れてしまっていた。
今な向こうも仕事中だろうし、返事をするなら今日の仕事が全部終わってからだろう。
だけどこのタイミングで向こうの誘いに乗ったら生瀬さんの忘れるために彼を利用しているように思えないだろうか。
そう考えるとダラリと冷や汗を掻いた。私は一体何を考えているんだろうか。
はぁと溜息を吐き出し落ち着くと、前の方からスーツを着た見覚えのある人がこちらに向かって歩いてくる。
「あれ、社長。どうしてここにいるんですか?」
隣にいた菅沼も意外そうに声を掛けると生瀬さんは「あぁ、」と、
「そろそろ大事な契約だろうから顔を出しておこうと思ってな」
「午前中にもほかの企業の打ち合わせついて行ってましたよね。忙しくないですか?」
「大丈夫だ、フェスの方も落ち着いたしな。会場は全部見たのか? よかったら案内してくれ」
普段通りの生瀬さんに私は湧いてきた感情を何とか自分の中に沈めた。
やっぱりまだ、視界に入れたら動揺せずにはいられない。だけどここにきてくれたということは私たちに期待してくれているということだろう。