君のことは一ミリたりとも【完】



案内も頼まれて意気揚々とする菅沼とは対照的に黙っていると、生瀬さんは菅沼に聞こえない声でこちらに呟いた。


「朝は顔を合わせなかったが、熱は下がったのか?」

「あ、はい……昨日は休みをいただきすみませんでした」

「いや、いい。ここ最近忙しかったからな。気付けなくて悪かった」

「……」


気付けなかった、それもそうだ。私は生瀬さんに振られてからずっと彼を避けてきた。
少しでも彼に未練があると思われたくなかったから、だから顔も合わせたくなかった。

大丈夫、今の私はちゃんと彼の部下だ。


「今後はこのようなことがないように身を引き締めますので」


この人を好きだった記憶は消せないけれど、それもいい思い出に変えられるように今は目の前のことを頑張ろう。
そう自分の中での意識が明確に変わり始めたというのに、私は彼に思いがけない言葉を掛けられた。


「体調を悪くしていたのはこの間の千里が会社に来たことと関係があるか?」

「っ……」


彼の低いテナー音で囁かれた名前は彼の奥さんのもので、一瞬であの時の出来事がフラッシュバックする。


『貴方の粘り勝ちかなって思ったんだけど、そうでもなかったようね』


あの艶のある声は私のことを逃がさないとも言っているように聞こえた。
急に出された名前に彼にも奥さんと何かあったと勘付かれていたのだと把握する。


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