軍人皇帝の幼妻育成~貴方色に染められて~
「誰?」
この宮殿で働く者は多いが、自分の生活圏内で顔を合わせる人物の顔はさすがにだいたい把握してきた。けれどこの男の顔は一度も見たことがない。
怪訝に思ったシーラが思わず眉根を寄せると、隣のクーシーも警戒するようにますます低く唸りをあげた。
それを見て男は慌てたように一歩下がると、右手を胸に当て左手を後ろにまわし恭しく頭を下げる。
「これは失礼いたしました。僕はポワニャール国大使、ボドワン・シャルルと申します。本日よりシーラ王女殿下のポワニャール語の講師として、派遣されて参りました」
「まあ、そうだったの」
そういえば秘書官が、今週から新たにポワニャール語の授業を始めると言っていたことを思い出す。彼の素性が分かり、シーラはホッと緊張を解く。
「宮廷顧問官殿と一緒に広間でお待ちしていたのですが、お時間になっても殿下がいらっしゃらなかったので、僭越ながらこんなところまで探しにきてしまいました」
「えっ?」
シーラは驚いて振り返り、帝都にそびえたっている時計塔を見やった。午後の授業が始まる時間を、とっくに過ぎている。援軍の出発が気になって、すっかり失念してしまっていた。
「ご……ごめんなさい! 私ってばアドルフ様が気になって、ついうっかり……」
せっかく立派な皇妃になろうと決意したところなのに、これでは台無しである。
最初から授業をすっぽかすような真似をしてしまい申し訳なかったと焦るシーラを見て、ボドワンは肩を竦めクスクスと笑い出した。
「そんなところもクラーラ王太妃殿下とそっくりだ。あのお方も、夫君のこととなると他のことが目に入らなくなって、よく慌ててらした」
ボドワンの態度と言葉に、シーラは驚いて唖然とする。初対面の異国の皇妃にこんな屈託ない態度をとれることも驚きだけれど、彼の口から『クラーラ』と母の名が出たことはもっと驚きだった。
そういえば先ほども彼はシーラを母に似ていると言っていた気がする。
「あなた、私のお母様を知っているの?」
途端にシーラの胸が逸った。教会のシスター達も、アドルフも、メア宮殿の誰もが教えてくれなかった母の話が聞けるのだろうか。