君の日々に、そっと触れたい。
「………さくら……?」
不意に李紅が目を覚まし、薄く開いた瞳に私の姿を映した。
「李紅」
「………っう、桜わるい、ピンク取って…」
「え、ああ待って!」
私はテーブルの上にあった嘔吐用の容器を急いで李紅の口元に持っていく。
本当はガーグルベースとかいう名前のあるらしいそれを、李紅は「ピンク」と読んでいた。なんでも、小さい頃お母さんが李紅の前でそう呼んでいたかららしい。
李紅は首だけを起こして容器を寄せたけれど、嘔吐くばかりで何も吐けない。
私が李紅の背中をゆっくりとさすり続け、ようやく出せたのは、ただの胃液。
最近はこんなことが頻繁にあった。
胃液のせいで唇が荒れ、嘔吐きすぎでお腹の筋肉がつって痛がるほど。
そんな李紅に、最初のうちは私も戸惑ってばかりだった。けれど今では落ち着いて背中をさすれるようになった。
慣れてしまった、苦しいことに。
そんな私に、賢太郎くんたちは すっかり圧倒された様子だった。何をすることも出来ず、立ち尽くしていた。
「落ち着いた?李紅」
「ん…………ごめん」
「なにが。ほら、うがいしなよ」
小さく頷いてコップを受け取った手の頼りなさに、思わず両手を重ねて支えた。
このところ李紅は、左手に上手く力が入らないと言っていた。腫瘍が神経に触れたのだ。
どんどん、どんどん、李紅の身体が病気に蝕まれていく。
約束した桜の季節を本当に迎えられるのかを、疑うくらいに。
医療知識なんて皆無な私でもなんとなく分かるのだから、未来が見えるとまで言うような李紅にはもっと重く伝わってるはずだ。
当初の予想より、進行が早まってるのだ。
「他に辛いとこない?まだお腹痛い?」
「………ずっと使ってるからね。ただの筋肉痛。そのうちバキバキに割れてシックスパックになったりして」
「もう、バカなこと言ってないで横になって」
「はーい」
「ぷっ…!」
私たちのそんなやりとりに、それまで呆然としていた賢太郎くんたちが、一斉に吹き出した。
「李紅お前!こんなシリアスな空気でシックスパックとか言うか普通!」
「あれ、いたの?太陽」
「ひでぇ!」
がははは、と派手に笑った太陽くんを筆頭に、病室中が笑いに包み込まれた。
何がおかしいわけでもないけれど、思わず私も声を出して笑った。
こんなに思い切り笑ったのは、いつぶりだろうか。
こんなにも簡単に皆を笑顔にするなんて、やっぱり弱っていてもさすがは李紅だ。
この先、きっと想像もつかないほど辛い日々が待ってる。
だけどきっと、この笑顔だけはいつでも必ず私を救ってくれるのだろう。