能ある狼は牙を隠す


息を切らしてまで会いに行きたい人ができるなど、少し前の自分は想像しただろうか。

彼女は廊下に立ち止まり、窓の外を黙って見つめていた。
その表情がいつになく大人びていて、目を奪われる。


「羊ちゃん」


何か考え事でもしていたのか、二回目の呼び掛けでようやく彼女は振り向いた。


「良かった。まだ、いた」


そもそも帰っているかもしれないと思っていたので、心底安心した。
膝に手をついて息を整える。

狼谷くん、と遠慮がちに俺の名前を呼んだ彼女は、恐る恐るといった様子で近付いてきた。


「だ、大丈夫? 風邪引いちゃうよ。傘ささずに来たの?」


羊ちゃんはそう言ってポケットを漁ると、そうするのが当然のごとくハンカチを俺の顔にあてがう。

柔らかい布の感触と、耳朶を打つ彼女の声。
一週間ぶりに会ったということも相まって、たちまち胸が苦しくなった。

無視したのに。それなのに、こんなに優しくしてくれるの。
彼女がくれる無償の優しさに、溺れてしまいそうだ。


「か、狼谷くん……?」


衝動的に彼女の手に触れた。

ああ、その声だ。俺はずっと、羊ちゃんに名前を呼んで欲しかった。
心配そうに見つめるその瞳も、温かいこの手も、全部愛おしい。


「あの時も、こうだったよね」

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