拾った彼女が叫ぶから
 その瞬間低くかすれた柔らかな声音にマリアはいたたまれなくなった。
 ルーファスが紡ぐ自分の名前は心地よい響きを伴って、心を揺らす。
 言わなきゃ良かった、と思った。名前で呼んで、だなんて。
 今日限りの人に向かって、何てことを言ってしまったんだろう。

 なんでこんなに、この人の笑みは胸をざわつかせるんだろう。
 もしかして身体を許したから、受け止め方が変わってしまっただけなんだろうか。でも、マリアはその前を知らない。二人の出会いはいきなり抱き合ったことだから。
 普段のルーファスはどんなだろう? 元々こうやって甘く名前を呼ぶ人なんだろうか。
 
 ──だめ、そんなことを考えちゃ。

「実は、忘れ物というのは」
「あ、はいっ」
「一つ頼み事があったんです。マリアにしかお願いできなくて」

 ルーファスが満面の笑みを向けた。マリアは考え事を頭から追いやり、姿勢を正した。

「お願い?」
「そうです。マリアは一昨日、ダンスが得意だと言っていたでしょう? 僕の、ダンスの相手役をお願いしたいんですよ」
「相手役って、舞踏会の? そんなのどこかの令嬢の方が」
「いえいえ。練習のときにです。実は僕、ダンスが下手でして」

 マリアは目をぱちくりさせた。王子殿下ともあろう人が、社交の基本的なたしなみであるダンスが下手?

「うそ……」
「嘘じゃありませんよ。何なら今から踊ってみます?」
「いえ、そこまでしなくてもいいけど……でも、ダンスの先生がいらっしゃるでしよう?」
「僕は壊滅的にダンスが駄目なんですよ。先生のレッスンだけでは上達の見込みがないらしく、毎日練習するようにとお達しをいただいてしまいました」
「それにしたって、もっとそれなりの家の方……公爵家のお嬢様とかのほうが良いのではないの? ブレナー家のサラ様とか」
「身長のバランスが一番良いのがマリアなんですよ。それにダンスは得意なんでしょう?」
「それは……言ったけど」
「もちろん、謝礼はお支払いします」
「やります」
「全くマリアさんははっきりしていますね。ははっ。じゃあ決まりですね」

 ルーファスが嬉しそうにサーモンのソテーを頬張った。その所作は洗練されていて、とてもダンスが下手だとは思えない。何か事情があるのかもしれない。

「あら、後悔するかもよ?」
「マリアにしごかれるなら、喜んで」
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