拾った彼女が叫ぶから
2. 近づく彼女

屋上デート1

「今日はこれくらいにしませんか」
「えっ、まだ一時間も練習していないわ。大丈夫よ」

 マリアは慌てて顔を上げ、目の前のルーファスを安心させるように首を振った。
 今日のレッスンにはいつもより身が入っていないことには自分でも気が付いていた。だが、それを悟られない程度にはきちんとこなしているつもりだった。
 ルーファスの微笑みは、やっぱり近くで見つめると女性をどきりとさせる類のものだ。それが今はどことなく気遣わしげに見えるのは気のせいだろうか。
 ──いけない、いけない。
 心の中でだけ、自分の頬を叩く。
 そうするとこの前の庭園でのことを思い出してしまい、またため息をつきそうになる。

「僕もたまにはサボりたいんですよ。いつまでもマリアと踊っていたい気持ちはもちろんあるんですけど」

 ルーファスがピアノの奏者に目配せをする。奏者が出て行くと、様々な天使が恵みを寿ぐ様子が描かれた天井のある中広間には二人だけになった。正確にはルーファスの侍従が壁際で控えているのだが、中広間とは言えども広々としているために彼らの姿は遠い。シャンデリアが煌めき、濃いピンクと深い緑で統一された華やかながらシックな中広間にルーファスが身じろぎをした靴音が響く。

 優しいな、と思う。マリアが指導できていないからではなく、自分の都合で止めたいと言ってくれている。
 マリアが申し訳なく思わないように。
 うわの空になってしまうのは、この前のルーファスにされたことのせいではあるのだけれど。それだけではない。

『君がルーファス殿下と親交があるとは知らなかった』

 公爵家の馬車でゲイルに送ってもらったとき、彼はルーファスのことを聞きたがった。最初はなぜこんなに尋ねられるのだろうと首を傾げたけれど、良く考えればゲイルの妻となる人はルーファスの妹だ。義兄のことは気になるものかもしれない。なんと言っても王家だし、機嫌を損ねるようなことがあってはならないだろうし。

『親交というほどのものでも……お目にかかってからまだ二、三ヶ月です。ちょっとしたきっかけで、ルー……殿下のダンスの練習のお相手を務めているんです』
『働き口を斡旋してもらったのかい? 君があれからどうしているのか気になっていた』

 気になっていたとは言うが、その目はマリアを気遣うものではなかった。何か別なこと……、例えばマリアとの過去が王族に知れることを恐れているというような。そう考えれば、ゲイルがなぜルーファスとマリアの関係を探ったのかも、わかる。ただ義理の兄になる相手だからというような生易しい理由ではないはずだ。

 あれは斡旋と言えるのだろうか。マリアは自分からは家の状況をルーファスに教えたことはない。それでもルーファスの立場ならオルディス家の経済状況まで調べ上げることなどたやすいのかもしれない。実際、両親のことも知っていたようだし。
 何にせよ、マリアは彼のお陰でなんとか収入──それも、ただのダンス相手にしては破格の待遇の──を得ることができた。その意味ではルーファスには頭が上がらない。

『だが、君は今それが許される立場ではないだろう。僕がいたときには社交界にも出られたが、今はそういうわけにもいくまい。殿下のお情けに調子付かないようにしなさい。王宮に出入りしていると言っても、君は他の令嬢とは違うのだからね』
『……はい』
『些細なことで殿下に色目を使ったなどと揶揄する輩もいるだろう。君の行動が殿下の評判を落とすことにも繋がるんだ。あまり馴れ馴れしくしてはいけない』
『はい』

 マリアはすっと目の前のルーファスから目を逸らした。
 だめだ、このままではまたくよくよしそうになる。ルーファスの言う通り、少し気分転換をした方がいいかもしれない。

「どうしましたか?」
「……ねえ、ルーファス」

 そうだ、とマリアはあることを思いついた。
 マリアは彼に向かってふわりと頬を緩めた。ついでにくるりとその場で回転する。ルーファスの髪の色にも似たクリーム色のドレスが、柔らかく風をはらんだ。

「とっておきの場所に行かない? 高い場所が大丈夫なら、だけど」
「高所恐怖症ではないつもりですよ。マリアさんが連れて行ってくれる場所ならどこへでも伺います。でもどこですか?」
「ふふ、それは行ってからのお楽しみ。まずは許可をもらって?」

 マリアはにわかに胸を躍らせる。ルーファスにもあの場所を見せたい、とふと思ったのだ。
 そこに連れていけば、少しは気分転換にもなるだろうか。ルーファスも、マリアも。
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