拾った彼女が叫ぶから
「え、なんでゲイル……?」
「今もまだ名前で呼ぶんですか」

 声がしんとして、怖い。眇められた目が、マリアの胸に突き刺さるような気がしてしまう。
 突然何の脈絡もなくその名前が出てきたので、彼女はぽかんとしてルーファスを見上げた。脈絡がないどころか、ルーファスにゲイルの話をしたのは出会った日だけである。鼓動が変に乱れ打ち始めた。

「今も好きなんですか?」

 ルーファスはマリアの両脇に手を突いたまま、真剣な瞳で見下ろす。いつものつかみ所のない笑顔とは違う顔に、マリアはたじろいだ。誤魔化したり、話を逸らすことは無理みたいだ。

「ちょ、その態勢は危ないわよ」
「いいから。教えてください」
「……ルーファスには、関係ないじゃない」
「関係なくなんかないですよ」

 関係なくはない、と言われてようやく飲み込めた。と言っても、ルーファスがゲイルのことを気にする理由が飲み込めただけで、なぜ今このタイミングでその話が出てきたのかは全く思い当たる節がないのだが。
 
「あ、……イエーナ殿下の夫になる人だものね。ルーファスにも関係はあるんだね。大丈夫、別にあの人のところに殴り込みに行く気はないから。イエーナ殿下の降嫁を邪魔立てするようなことは絶対しないわ。もちろん、言いふらしもしないから安心して」

 妹君の嫁ぎ先がガードナー家なのだから気にしないわけがない。マリアは彼を安心させるように笑った。ルーファスはマリアが騒ぎを起こさないかと心配なのだろう。そう思って、微笑んでみる。ところがルーファスは眉をきつく寄せた。重ねられた手が、ぎゅっと握り込まれる。痛いほどだ。彼の手のひらと同じ熱が、触れた手から胸に流れ込んでくるような気さえする。

「そうじゃなくて、マリアの気持ちですよ」
「私の……」

 なぜそんなことを訊かれるのだろう。マリアは目を逸らした。ルーファスの脇から夜空の向こうを眺める。さっきよりも、瞬く星の数が増えていた。夜が深まっている。
 マリアはきゅっと目を瞑った。

 捨て猫のようだった彼女を拾ってくれたゲイルは、けれど最後までそれ以上の感情をマリアに向けてはくれなかったのだと、今はもうすとんと沁みている。思い返すまでもない。
 ますます、マリアは自分がナァーゴと同じに思えて情けなくも笑えた。

「終わったことだもの」

 再び目を開いたときに、目の前にあったのは鋭い光を放つ琥珀の輝きだった。その近さに少し狼狽える。その色の中に、諦めたような、悟ったような、何とも言えない表情をした自分が映る。
 拾ってくれたから、懐いた。餌をもらえて尻尾を振った。
 それだけのこと。
 だけど飼い猫にするつもりは、向こうにはなかっただけだ。

「本当に?」
「ええ」

 ルーファスに念を押されて、自分でも不思議なほど躊躇いなく頷いた。どうして今そんなことを訊いてきたのか、なぜそんなにも真剣な顔をしているのか、訊き返したい気分だけど何となくそれを口にして良い雰囲気ではないような気がして、マリアは口を噤む。
 自分の心を探ってみる。何度のぞいてみても、やっぱりそこにはゲイル自身に対する未練だとか、執着というものはなくて、馬鹿だなあ私、という諦めにも似た思いだけだ。あの親にしてこの子ありというところだろう。親子共々、簡単に信じてしまうのだと思うと苦い笑いしか出てこない。

「正直に言うと……割り切れないものはあるわ。でもそれは未練じゃないと思う。私も馬鹿だったのよ」
「マリアは悪くないですよ。悪いのはあの男です」
「うん、ありがとう。でもね、それでも一度は……それが若気の至りだったのは否定しないけど、好きになった人だから」

 ルーファスがはっとして唇を引き結んだ。眉間に皺が寄っている。普段にこやかな笑みばかりを浮かべるルーファスにしては珍しく感情が出ている。常にはない様子に怖じてしまう。
 そのルーファスに心の中で、でもね、と続ける。
 かつてゲイルに向けた好意がどんなものだったのかも──何となく、わかりつつある。
 そして、多分それを教えてくれたのは目の前にいるルーファスだ。重ねられた手のひらから分けられた熱は、今マリアの体温と溶け合って丁度良い温もりを感じる。

 だけどそれを伝える勇気は持てない。
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