拾った彼女が叫ぶから
マリアはそっと目を伏せた。
 最初が最初だけに、ゲイルのときと同じ終わりを迎えるんじゃないかと思うと踏み出せない。都合よくあしらわれるだけなのではないか。
 ──すっかり臆病になっちゃった。

「ナァ──」
「あっ、ごめんね、ナァーゴのこと忘れてた。ルーファス、どいて? ナァーゴ、おいで」
 
 ナァーゴが、自分の定位置を取るなとばかり、彼の下になったマリアに潜り込もうとする。ルーファスが我に返って、手を離した。もう一度隣に腰掛ける彼に気付かれないように、マリアはさっと目尻に滲んだ涙を拭った。
 ナァーゴが我が物顔で彼女の膝に乗る。鼓動がまだ落ち着かない。マリアは耳の後ろをくすぐってやった。ナァァ、とナァーゴが目を細めた。

「ナァーゴは寒がりだから、こうしてすぐ膝に乗りたがるのよ」
「はあ……どっちが僕のライバルなのかな……」
「え、何て?」
「いえ、ナァーゴが羨ましいという話ですよ」
「あ、ルーファスも寒かったんだっけ」

 マリアは猫一匹分だけ空いていた距離を詰めた。肩と肩が触れ合う。驚いた表情のルーファスに笑った。

「くっついたら寒くないかなって思ったんだけど、どう?」
「……暖かいですよ」
「次はひざ掛けも用意するわね。もうだいぶ陽も短くなってきたことだし」
「次?」

 あっ、と小さくマリアは叫び声をあげた。何て軽率なことを言ってしまったのだろう。

「ごめんなさい、つい。王子殿下を何度もここに連れてきちゃ駄目だよね」
「いえ、またぜひ来させてください。それから……ひざ掛けもいいですけど、それより暖かくなれる方法を知ってますよ」 

 ルーファスが眉を下げて笑う。「なあに?」と訊き返す頃には、またルーファスの笑みはいつものものに戻っていて、ほっと胸を撫で下ろす。ドキドキするのに、ずっと見ていたくなる。

「おいで、マリアも、ナァーゴも」

 マリアが返事をする前に、ルーファスがナァーゴを抱いた彼女ごと抱き上げ、自身の膝に乗せた。ふわりと両腕が後ろからマリアを包み込む。
 ──え? え?
 突然のことに彼女は目を白黒させた。

「えっと、ルーファス、これは心臓に良くないわ」
「暖かいでしょう?」
「うん、それはそうだけど、今心臓が飛び出て落っこちたら回収するのが大変だから」
「そのときは僕が取ってきてあげますから」
「いや、そうじゃなくて」
「マリア、暴れたら本当に滑り落ちそうだからじっとしてて」
「は、い」

 両腕は後ろからお腹の前に回って、ナァーゴを抱いていたマリアの手に重ねられた。一回りは優に大きな手のひらだ。さっきは少し怖いとも思えたその手だったが、包み込まれる安心感に心がゆるゆると溶けていく。
 キスをされたときよりも、なぜだか今の方がルーファスを近くに感じる。
 けれど振り返ることができなくて、マリアは火照った頬を冷ますように、顔を前へと向けた。どこかで馬車が石畳をゆったりと進む音が聞こえる。頬を撫でる風がひんやりと気持ちよい。

 不意に肩口に重みを感じた。ちら、と横を見るとルーファスが額を乗せていたのだった。顔が見えないそのままの姿勢で、ルーファスがかすれた声を放った。

「マリア」
「なに」
「……離れないでくださいね」
「わかってるって、暴れないわよ」

 暴れてバルコニーに転げ落ちるなどという失態は流石に犯したくない。お尻が痛くなりそうだし、何より恥ずかし過ぎる。そう思って言い返すと、ルーファスの頭がわずかに震えた。
 ルーファスがマリアの肩口で呻き声を上げる。けれど彼が呟いた言葉はくぐもっていたからか夜空に溶けて、拾い上げられなかった。
 なぜだかわからないけれど、不意にルーファスまでナァーゴみたいに見えて、マリアは右肩に乗せられた頭をそっと左手で撫でる。
 よし、よし、と、いつかルーファスがマリアにしてくれたみたいに。
 ナァーゴの「ナァァー」という鳴き声が、溶けた言葉を追うみたいに夜空に吸い込まれていった。
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