最後の男(ひと)
「……追々ということだとだめですか」

さっきから視線を感じてはいるけれど、先輩の方を見ることができない。

「だめだな。来ちゃったしてきた意気込み、見せてみろよ」

「……先輩、ドSですか」

「そうみたいだな。おまえの前でだけ、限定だけど。ほら、言ってみ」

痺れを切らした先輩は、人差し指でくいっと私の顎を持ち上げて、強制的に視線を合わせようとする。

「だから、無理だって言ってるじゃないですか」

目を合わせたら負けとばかりに、あさっての方を見る。
ふと冷蔵庫の扉にぶら下がっているホワイトボードが目に入って、卵や牛乳といった次回の買い出しリストが走り書きしてあった。朝食用だろうか。

「一香、随分、余裕みたいだな」

気付けば、あっという間に距離を詰めてきた先輩の顔がすぐ側にある。

「余裕なのは先輩の方ですよね」

自分でも、どうしてこんなに恥ずかしい思いをしているのか分からない。何かスイッチが入ってしまったのか、初めてボーイフレンドができた時みたいに、甘酸っぱくて照れくさくて、慣れない。月並みに場数はこなしてきたいい大人の女が情けないと思うのに、ばかみたいに鼓動が高鳴っている。

「もしかして、覚えてないのか? 友親(トモチカ)、だろ。一香」

「~~~~分かったから! 友親!! これでいいですかっ」

唸りながら、半ば自棄になって声を荒げてしまう。色気も何もあったものじゃないけれど、今の私にはこれが限界だ。言いながら先輩の胸を押しやって距離を取ったはずが、逆に腕を取られてしまい、はっとして先輩を見上げる。

夜の海のように深い色をした瞳に見つめられて、目を奪われてしまう。体が石にでもなったように身動き取れなくなる。

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