狐の声がきこえる

北関東の山間で見る雨を含んだ重たい雲は、周りの鬱蒼とせりたってくる山々の沈んだ様子とともに、まるで皐月の気分をそのまま吸い取ったかのようだった。娯楽も何もないただの田舎は、そこにいるだけで息がつまり、苛立ちさえ募ってくる。それが喉の奥に刺さった棘のように抜けず、だからといって素直に出すこともできない。いや、どうやって感情を伝えていたのか、今は分からなくなってしまった。
「……皐月ちゃん、来るの久しぶりだよね」
離れて座った白彦が、遠慮するように呟いた。会わないうちに大人びて、背丈もいつのまにか皐月を超えた白彦を無視したまま、皐月は廊下からせり出した縁台の地面に視線を落として、足でそばにあるサンダルをつついたり、蹴ったりしていた。
白彦はそれきり口をつぐんで、縁台でスイカをしゃく、とかじった。
居間では、母が祖母に離婚の報告をしている。きっと泣いたり怒ったり、忙しいに違いない。
「皐月ちゃんも食べない? すごく甘いよ。おばあちゃんがつくったんだよ」
沈黙を守る皐月に、白彦がスイカののった盆をこちらに寄せた。ちらりと盆に視線を走らせると、鮮烈な赤が目を灼いた。それが目に痛くて、すぐにまた前を向いた。
「……どっか行った方がいい?」
遠慮がちな声にあえて聞こえないフリをした。
久しぶりに訪れた本家で、白彦は昔と変わらない笑顔で迎えてくれたのに、皐月はひどく醒めた態度を取っていた。不機嫌そのものの皐月に、白彦がうろたえていることも、すごく気を遣ってくれていることも分かってはいた。でも今はそれがとにかく煩わしかった。
どうしたらいいのか迷う素振りにイラっとして「好きにすれば」とつっけんどんに呟いた。
「ごめん……、じゃあ隣、いてもいいかな?」
「だから、好きにすればって言ってんの!」
思わず声を荒げ、それからそんな自分がたまらなく惨めになった。皐月は話しかけるなと言わんばかりに膝を抱え、その間に顔を埋めた。
自分の中に蔓延している気分は、本家に来るよりもずっと前から、腹の底にヘドロのように澱んで暗澹としている。
毎日毎日、針のむしろのような家の中で、普通に呼吸することさえままならない。なぜ自分ばかり、こんな思いをしなきゃならないのかという不満は、そのまま両親への不信感に繋がった。
愛し合って、それで皐月と依舞が生まれたんじゃなかったか。「パパとママの愛の結晶だから、何よりも大事なんだよ」と繰り返されてきた言葉は嘘だったのか。
騙されたような悔しさと鬱屈した怒りをもてあましていると、隣で立ち上がる気配を感じた。白彦が縁台を降りてどこかへと行ってしまったようだった。
自分で突き放したのに少しだけ淋しくて、そう思う自分にまた不愉快になった。胸の奥が悪いものでぐちゃぐちゃしていた。
耐えられないと思った。母の不機嫌さも、父の苦い顔も、依舞がベソをかく顔も、何もかも。
その時、駆けてくる音がして、顔をあげた。
白彦が息を弾ませて、皐月の前に立った。少し枝や葉で乱れた髪のまま、白彦は閉じあわせた両手をぐっと差し出した。
「……何?」
不機嫌な声が出てしまう。
「いいから手、……両手、手のひら上に向けて揃えて」
しばらく白彦の手を見つめた。皐月が手を差し出すまで、白彦はその場から動く気がないみたいだった。
渋々両手を差し出した。その瞬間、白彦はパッと手を開いた。
そこから落ちてきたのは、たくさんの四葉のクローバーと、色とりどりの花。そしてモンシロチョウやアゲハチョウなどの美しい蝶たちだった。
「わ……!」
自由に空へと蝶たちが舞いあがる華やかな光景に目を奪われた。
白彦はまた皐月の隣に座ると、蝶たちを皐月と同じように黙って視線で追っていた。
蝶たちが屋敷の庭やその外のいずこへともなく姿を消して、皐月はようやく両手を見た。
スミレやカンナやヒマワリや、いろんな花の中で、一番にもの言いたげな四葉のクローバー。
そのクローバーを数えた。七つだ。
「四葉のクローバーって、持ってるとシアワセになれるんだって聞いたよ。もともと葉が4枚あるのって植物の世界じゃ珍しいから、分かる気がする。それだけあれば、皐月ちゃんシアワセになれるかな?」
白彦の言葉に一瞬ポカンとして、意味が分かるとともに嬉しさがこみあげた。
でもどうしてだろう。次の瞬間、どんどんどす黒い感情が、自分の知らない深い底から湧いてきて、皐月の内面を塗り潰した。
「少しは元気、出た?」
穏やかな言葉に、皐月は顔を歪めた。その無邪気な気遣いが、ひどく憎らしくなった。両親の不仲が始まった頃から抑えてきた、澱んで腐敗しきった感情が、出口を求めてとぐろを巻いていた。
踏みにじって、汚し、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。
はっきりそう思った時、無意識に険のある言葉が口をついて出た。
「当てつけ?」
「皐月ちゃ」
「自分は幸せだから、そうじゃない家の子を上から見下ろしてんの?」
止められなかった。八つ当たりだと分かっていても、もうどうしようもなく。
「花とか蝶とか、もう子どもじゃないんだからさ、こんなので喜ぶと思ってんの、バカみたい」
クラスや部活の友人たちの不満を漏らしながらも恵まれている顔が浮かんで、かき消えた。
相手を傷つけたいだけの最低な言葉と感情が勢いを増して、皐月は両手に残っていた花を縁台に叩きつけるようにして立ち上がった。
白彦は責める表情をちらとも見せず、ただ哀しげに手から落ちる花を目で追った。それがまた癇に障って、皐月はその場から乱暴に踵を返した。
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