伯爵令妹の恋は憂鬱
そして、入口付近の机で、書類に十センチくらいまで顔を近づけて鉛筆を動かしている男に目をやった。
「あれ、マルセルもまだ残っていたのか。もう帰っていいよ、奥さん、身重だったろう」
経理担当のマルセルの妻は、教会の聖歌隊に入っていてマルティナとも顔見知りだ。
名をブリギッテ。二十五歳にして二児の母、現在は三人目がお腹にいる。
「一か所、計算が合わないところがあって」
「見せて」
トマスは彼から書類を奪い取り、一から確認する。最初、トマスもおかしなところを見つけられずにいたが、ふたりがかりで確認作業をしていたら、計算を間違えている部分を見つけた。
「ここだ!」
「あー、よかった。すっきりした!」
ふたりが喜びを分かちあったタイミングで、ディルクが執務室から出てくる。
「トマス! まだいたのか。マルセルも。遅くまでいても給料が上がるわけじゃないんだから早く帰れよ」
「ディルク様こそ」
「俺ももう帰るところだ。鍵を閉めるぞ。早く片付けろ」
「はい!」
ふたりは慌てて鞄を担ぎ、睨むディルクと目を合わせないようにして会社を出た。