漢江のほとりで待ってる
「ところで父上、一つ聞きたかったことがあったんのですが、あの椿氏、小田切仲親氏とは一体どういう方なのですか?」と慶太が切り出した。
過去を辿るように、目を細めて弦一郎は話し出した。
椿岩山こと、小田切仲親は、はじめは貿易商を営んでいた。
海外のインテリアなどを扱うことから、ホテル関連の仕事に目を向けたのがきっかけで、ホテル経営にも乗り出す。
今では世界的規模でチェーンを展開している、あのホテルの代名詞とも言える、ザ・リッチ・カートリッジの創始者が椿氏で、今現在、社長兼最高執行責任者である。
当時、周りの人間は彼のことを、若きホテル王と呼んだ。
それから彼の才能は多岐にもわたり、少年時代に墨絵は独学で習得し、青年になる頃には、彼独特の技法が世界でも認められ、今では知らない人間はいない程、有名な墨絵師。それがもう一つの名前、椿岩山。
あるお寺などに椿氏の天井画、龍の絵が有名となっている。
貿易商を営みながら、世界を飛び回り、墨絵も世界で高い評価を受けた。
弦一郎が、椿氏の娘、琴乃と出会った時は、彼女の父親がそこまで凄い経歴の持ち主とは知らなかったという。
琴乃の母親は、琴乃が二才の時、交通事故で亡くしている。
それ以来男手一つで、琴乃を大切に育てた。
琴乃が子供から大人へと変わって行く心の変化を、日々忙しさゆえに、見過ごしてしまった父と、少しずつ擦れ違いが生じ、知らない間に親子に溝が生まれて行った。
琴乃は勘当同然で家を出て、高柳グループに就職し、そこで運命的な出会いを果たす。
それが弦一郎だった。
互いのしがらみを理解し合い、寂しさや孤独感を埋めるように、深く二人は愛し合った。
そしてその時に生まれたのが、由弦だった。
琴乃は一人娘だったゆえ、とにかく厳しく育てられ、もちろんのこと、小田切家の跡取りとして考えられていたし、琴乃の結婚相手が後継者とも視野に入れていただけに、既婚者だった弦一郎には、椿氏にとって失望しかなかった。
不倫、略奪愛などと琴乃は悪く言われ、揚げ句捨てられた。
男に家族があると、真相を知らなければ、いつも悪く言われるのは女側。
でも本当の所は違った。
「一番悪いのは、私なのに、親戚や世間は、琴乃一人を非難した。それすら私はかばってやれなかった……」
ボソッと呟く弦一郎。
一方的に捨てられた形で、一人寂しく琴乃は、幼い由弦を置いて死んでいった。
その子にまでも、愛人の子と邪険な扱いをした。
これが、高橋家と小田切家の断絶の理由だった。
琴乃には、誰からも祝福される、幸せな結婚を望んでいた椿氏。
まず恋人が出来て、それから婚約し、そして結婚。やがて初孫が出来たと顔を見せに来る……そうやって一つずつ幸せを段階を追って、運んで来てくれると願っていたのに、それを無残にも奪われた。
椿氏の娘と孫に対する思いは、計り知れない。
弦一郎は、最後まで傍にいてやれなかったこと、彼女の父との関係も修復させてやれなかったことが、本当に心残りだと締め括った。
「そんな凄い方だったなんて……墨絵師の椿岩山氏とうちの大株主の小田切仲親氏は、全く別人だと思ってましたから。分からなかったのも当然か。今だから分かるんですが、由弦も由弦の母上も壮絶な人生だった。私はまだ幸せな方だ。なのに自分は愛されていないと思い込み、恨む矛先を間違えていた」
慶太は言った。
「うん~、その上私は由弦までないがしろにして来た。あの子に生まれて来なければよかったなんて言わせた私は、ほんとに父親失格だ」
「あなた一人が悪いんじゃありません。私にも責任はあります。あの当時の私達には夫婦の絆なんてなかった。いいえ、私にこそ……」
雅羅が自分を責めて、むしろ自分に汚点があったことを言おうすると、
「君は何も悪くない。君もまた被害者だ。財閥に生まれたために、その一族の発展のためだけに人生を左右された。君の気持ちさえ周りは無視した。私もその一人だ。もうすこし君に寄り添っていれば……」
「いいえ、私こそ、あなたに愛情をあげられなかった。そして幼かった由弦さんを、憎んだ。憎むべき相手はあの子ではないのに。由弦さんに対しても、私は義母として最低なことをして来ました。今まであなた一人を責めて来たけれど、そうすることで自分を保っていたのも事実、でも、それは間違っていた。これからは一緒に罪を償わせてください」
雅羅は弦一郎に寄り添って、言葉を掛けた。
結婚して初めての愛情を、弦一郎は感じた瞬間だった。