続・マドンナブルー
長尾は、目をうるうるとさせながら紙片に目を落としている咲羅を、無言で見つめていた。

 長尾の視線に気づいた咲羅は、自分の世界に入り込んでいたことに恥じらい、あいまいに笑って彼を見た。

「これ、さっき話した例の手紙です。ふふっ。ばかみたいですよね。こんなの持ち歩いたりして」

 咲羅は、長尾に手紙を差し出した。宝物のような手紙を他人に見せることに抵抗はあったものの、こうすることで、手紙の価値を茶化してしまいたかった。くだらないことに縛られているって、そう思い込みたかった。

 長尾はためらいながらも、渡された手紙を読み始めた。内容を要約すると、次のようなものである。

 咲羅の想い人は、妻子を失ったことにより生きる気力を無くしていた。そんな時期に出会った咲羅に、戸惑いながらも惹かれていく。しかし、彼は咲羅と相思相愛だと知るのだが、彼女を受け入れることなく冷たく突き放した。そのことに対して、咲羅への謝罪があり、本当は彼女を抱きたくてしかたがなかったという告白と続き、彼女への感謝が記されていた。そして最後は、彼女を激励する言葉で締めくくられている。

 手紙を読み進めている長尾の表情は、ころころと変わった。真顔だったりニヤついたり・・・・・・。そして彼の目が、差出人の名前を捉えたとき、

「安藤勝則って、これって安藤先生じゃないですか!」

 と興奮気味に言った。咲羅は、長尾は安藤の消息を知っているのだと思いどきっとした。しかし、彼とは高校生活が同じ校舎で重なっていたことを思い出し、たんに彼が高校時代の教師を覚えていたにすぎないと解釈し直した。

「安藤先生をよく覚えてますね。一年しかいなかった先生なのに」
「はい。よく覚えてます。じつは、僕は密かに安藤先生に憧れていたんです。そうですか。門倉先生の忘れられない人って安藤先生なんですね」

 彼は息を弾ませて言った。同性愛者の長尾が男性に憧れるということは、つまり、惚れるということなのだろうか。となると、長尾と咲羅はかつて恋のライバルだったということになる。そう考えると何か笑えた。

「好きなタイプ、かぶりますね」
「まったく困りますね。門倉先生と今後同じ男を取り合いになる可能性を考えると、僕たちは仲良くしないほうがよさそうですね」 

 長尾はそうおどけ、二人は笑った。

「門倉先生、一つ質問なんですが」
「はい」
「手紙の中に、あの冬の日、と妙に含みのある言葉が何度も書いてありましたが、冬に何があったんですか?」

 そう質問されて、咲羅の脳裏に、そのときの情景が鮮やかに広がった。もうずっと昔のことなのに、思い出しただけで体が熱くなる。その感覚を長尾におすそわけする気持ちで、咲羅は話し始めた。

「私、高二の冬に暴漢に襲われそうになったことがあるんです。そこを偶然通りかかった安藤先生に助けてもらって、私はそのまま気絶しちゃって、気が付いたら、私は先生の部屋のベッドで寝てたんです」

 長尾は息を飲んで聞いていた。

「そして、私は裸になって、先生に自分を描いてほしいって頼んだんです」
「わあ!門倉先生ってそんな大胆な人だったんですね。で、そのまま一線を越えてしまったんですか?」
「越えてません越えてません。ご存知のように、安藤先生は生徒に手を出すような不届き者じゃありませんから」
「ですよね」
「先生が私を描いた後、私は先生に想いを伝えました。抱きついて抱いてほしいとせがんだりして。もちろん拒まれましたが」
「安藤先生とそんな思い出があるなんて、門倉先生が羨ましいです。安藤先生ってすごく生徒思いだったし、優しかったしかっこよかったですよね。いいなー」

 女子会のような会話になってきた。男らしい長尾がゲイだということにまだ慣れず、咲羅はこらえていたものを吹き出してしまった。

「すみません。笑ってしまって。だってまだ慣れないんです。長尾先生は男性としてかなり素敵です。実際、私もあなたに結構ときめいてました。でも、あなたは男性にときめくわけですよね」

 長尾は苦笑した。

「男らしくも素敵でもないです。ただ、自分がゲイであるのを他人に悟られるのを恐れて、必死に男らしさを装ってきただけです」
「では、誰も知らないんですか?」
「高校生のころ、ゲイ雑誌を隠し持っているのを母親に見つかったことがあって、両親は知ってます。でも幸いなことに、僕の両親は理解があるので応援してくれてます。あと、門倉先生の三人です」

 長尾は、さぞ孤独を抱えて生きてきたのだろうと思うと、かわいそうでならなかった。同性愛を売りに人気を博しているタレントは数多くいるが、総人口の中では特殊で少数派の彼らにとって、苦しみは底知れないだろう。悩みに悩んだ挙句、ようやくカミングアウトにつながったに違いない。どんな、励ましや応援の言葉もうすっぺらく感じ、咲羅はただ「そうなんですね」と答えた。

 その後、だいぶ飲み、二人はすっかり打ち解けて話しこんだ。古くからの友人のように、彼といると和んだ。

「長尾先生も、ボクシングやってたんですか?」

 その日観た試合をふと思い出し、そう尋ねた。

「いえ、僕はずっと陸上一筋ですよ。門倉先生はスポーツのご経験は?」
「じつは、私運動がからっきしだめなんです」
「でしょうね」

 咲羅がふくれっ面になると、長尾は笑いながら「すみません」と謝った。

「小学生のころから自分は運動が苦手なんだと思いこんで、ずっと避けてきたんですけど、今日のボクシングの試合観たら、何か自分も新しいことに挑戦してみたくなりました」

 そのときの気分で気まぐれに言っただけなのだが、長尾は何かひらめいたらしく、彼の目が光った。

「先生、それならマラソンしましょうよ」
「は!?」
「一緒にマラソンしましょうよ。僕がコーチします」

 長尾はかなり乗り気のようで、意気揚々としていた。

「そんな、マラソンなんて私無理です・・・・・・!」
「大丈夫ですって~気持ちいいですよ。先生、明日の午後の予定は?」
「まあ特には・・・・・・」
「では決まりですね」

 長尾はにっこりとし、一方的にとある公園名と時間を指定してきた。咲羅はその公園を知っていた。一つの小さな山全体が公園となっており、一部が舗装されて、山を駆け巡る形のジョギングコースがある。もちろん走ったことはないが・・・・・・。

 咲羅は断ろうと口を開いたが、長尾は張り切った様子でマラソンの醍醐味の熱弁を始めていた。そのため、彼女は開いた口を閉じるしかなかった。



  翌日、咲羅はしぶしぶながら約束の公園に来た。走らされることは分かっていたため、一応Tシャツに短パン、スニーカーをはいてきた。指定された時間になったが、まだ長尾は現れない。酒の席での話だったし、彼は約束したことを忘れているのかもしれない。それはそうで、そのほうが都合がよい。マラソンなんて勘弁してほしい。そんなことを咲羅が考えていると、遠くから走ってくる長尾の姿が見えた。

「お待たせしてすみません」
 
 長尾は笑顔で言った。彼は顔を洗ったような汗をかいているが、それが、とてもさわやかに見えた。

「早く来たので、さきに一周走ってきました」

 と彼は息を弾ませて言う。体にフィットしたTシャツが汗を吸い、隆起した胸板を強調している。顔は、相変わらず端正で精悍な雰囲気だ。咲羅は、しばし彼に見とれた。今まで何人の女の子が彼に泣かされたのだろうかと、ふと考えた。

「ん?僕の顔に何かついてます?」
「いえ別に」

 咲羅はあわてて目をそらした。

「ではさっそく始めましょうか」

 長尾はストレッチを始めた。咲羅も彼にならい、ぎこちなく体を動かした。いたるところが痛く、いかに自分が運動不足であるかを認識させられた。入念な準備運動を終えると、いよいよ走り出す運びとなった。

 予想通り、開始直後からきつかった。ジョギングコースは一周およそ三キロである。その半分もいかないうちに、咲羅の足は止まってしまった。背を丸めて両膝に手をつき、ぜえぜえと息を切らした。意図したことではないが、思惑通りにことは進んでいた。おそらく長尾はあきれているに違いない。「門倉先生は、走ることに不向きなようですね」とでも言って、さじを投げるに決まっている。マラソンをしようなどと、二度と言ってこないだろう。

 咲羅はすこし大げさに息切れをし、チラッと彼を見た。しかし彼はあきれるどころか、満足そうに笑みを浮かべていた。

「意外と走れますね。門倉先生は筋肉ぜんぜんなさそうだから、五百メートルも走れないって思ってました。一キロも走りましたよ。すごいじゃないですか」

 皮肉ではなく、本当に感心しているようである。勇んでいる彼に、さらに走らされるのではと恐れたが、意外にも、今日はこれで終了となった。

 別れ際に長尾が、

「門倉先生の限界は一キロのようですね。今日走ったよりももっと速度を落として、歩いてるんだか走ってるんだか分からないようなペースでよいので、とりあえず一週間は毎日続けてください。ゆっくりでいいので、必ず毎日ですよ」

 と念を押した。
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