続・マドンナブルー
咲羅は、長尾の言いつけ通り、とりあえず一週間毎日走った。気乗りしないことだったが、歩行の延長程度のゆっくりのランが、意外なほど負担じゃなかったのだ。最終日の七日目となると、物足りなさを感じるほどとなった。

 それを見計らったかのように、長尾は次の指令を出す。今度の一週間はできるだけ速く、同じ距離を走るというものだった。咲羅はほんの数日前、長尾と初めて公園を訪れたとき、大した速度でないランで出だしからばてていた。しかし今、けっこうな速度で走っていると思うのだが、ふしぎと疲れてこない。爽快感さえある。そしてまた七日目となると、ふたたびもの足りなくなる。次の週は、距離を延ばしてまたゆっくりのランを行い、翌週は速く走る。この長尾の教示するサイクルにより、咲羅は順調に走行距離を延ばしていき、ジョギングを楽しめるまでとなった。

「咲羅ちゃん、最近なんかきれいになったよね」

 ある朝、義父の敏郎が朝食時に言ってきた。

「えーそうかなあ。そんなことないよ」

 そう言ったが、やはりうれしい。

「絶対きれいになったよ。さては男ができたな」
「だといいんだけど、残念ながら、いまだ寂しい独り身です」

 咲羅は笑って言った。彼氏がいないのがなんだ。二十六歳で処女だからなんだ。私は友人だっているし趣味もある。人生を大いに楽しんでいる。最近そう思えるようになった。

「咲羅、最近毎日仕事帰りにジョギングしてるのよ」

 台所で立ち働いている晴江が口を挟んだ。

「だからかあ。なんか最近の咲羅ちゃんいきいきしてるよな。俺、最近飲み会続きで太ったんだよ。俺も始めようかな」
「うん。すごくおすすめ。身も心も軽くなる感じで本当に気持ち良いよ」
「二人とも、遅刻するから早く食べちゃって!」

 晴江にそう言われ、咲羅と敏郎はあわててごはんをかきこんだ。

 出勤時、毎朝弟の拓斗が玄関で見送ってくれる。

「さーちゃんいってらっしゃい」
「たっくんいってきます」

 咲羅は拓斗をぎゅうっと抱きしめた。毎日この歳の離れた弟から活力をもらっている。家族っていいな、と改めて思った。

 咲羅は、平日は仕事帰りに一人で走り、土日はよく長尾と走った。咲羅に性的指向を知られた長尾は、素の姿で彼女と接した。ランニング中かっこいい男性を見かければ、二人で恋ばなに花を咲かせた。すっかり彼らは同僚の枠を越えた友人同士となっていた。しかし職場では、あくまで他人行儀を装った。男女の友情は理解されないことが多い。おかしな誤解をや詮索をされては厄介である。

 その彼が、ある日の昼休み、咲羅のもとへやってきた。職員室では大勢の教師たちが昼食を食べている。何ごとかと咲羅は身構えた。

「門倉先生は、毎日ジョギングをしてるっておっしゃってましたよね」

 長尾は他人行儀にそう言った。他の教師たちに聞こえるほどの声である。彼は何かたくらんでいると思い、困惑して咲羅はすぐに言葉が出なかった。

 咲羅が返答する前に、周囲の教師たちが彼らの会話に加わった。

「えー意外。門倉先生って走るんだー。物静かな感じだし、運動なんて絶対しない人だと思ってた」

 どこか嫌味な口調で真っ先に口を挟んだのは、二十九歳独身、英語教師の白井ゆりかである。彼女はちょっと癖のある人物で、飲み会では居合わせない教師の悪口や噂話をしきりにする。咲羅はそんな彼女が苦手だった。白井の口調が嫌味なのは、咲羅が長尾と接しているからだろう。白井が長尾に執心だということは周知の事実なのだ。

 白井は咲羅に話しているのだが、明らかに長尾を意識している様子で、丁寧にグロスを塗った唇から発せられる声は普段より高い。

「いつもどのくらい走るんですか?」
「ええと、七、八キロです」
「すごーい。そんなに走るなんて信じらんなーい。華奢なのに体力あるんですね」

 白井はわざとらしく大げさに話す。

「では、門倉先生も大会に出るんですね?」

 そう口を挟んだのは、中年の男性教師だ。

「はい?」
「門倉先生もマラソン大会に出るんでしょ?」
「えっ!?」

 寝耳に水の話だ。そこへ、咲羅からの否定の言葉を阻止しようとするかのように、長尾が話に割って入った。

「僕も、その話をしようと思ったんです」

 長尾は咲羅の前に一枚の用紙を差し出した。来月開催予定で、県主催のハーフマラソン大会の応募用紙である。大会に出るなんて咲羅は考えたこともなかった。返答に困っている彼女をよそに、長尾を含めた他の教師たちは勝手に話で盛り上がっていた。

「いやあ今年のマラソン大会も楽しみですねぇ。むしろ私は打ち上げのほうが楽しみなんですが」
「門倉先生、七、八キロ走っているんなら十キロではもの足りないですよね。十キロの部もあるんですが、やはりここはハーフに出るべきですよね」
「ちょっと待ってください!十キロとかハーフとか、何なんですか?」

 勝手に話を進められては困る。咲羅はあわてて言った。

「五キロの部とか十キロもあるんです。ハーフっていうのはフルマラソンの半分で、二十一キロのことです」
「二十一キロ!?」
「今年のマラソン大会は盛り上がりますね。紅一点で門倉先生のような若い女性が加わってくれるんですから」

 咲羅は、出場する気はないことを何とか伝えようと、教師たちが話している横から「あのう、あのう」と切羽詰った声を発していた。しかし、それを押し切るようにして長尾が話を締めくくってしまった。

「では、門倉先生もハーフでよろしいですね。先生方の応募用紙は僕がまとめて送るので、こちらに記入をお願いします」

 今さら辞退したいとは言い出せず、咲羅はしぶしぶ「はい」と返事した。とがめる目で長尾を見ると、彼はにこっとほほ笑んだ。その瞬間、咲羅は彼にはめられたのだと悟った。
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