続・マドンナブルー
その日、初出勤を終えた咲羅は車で帰宅した。白壁の真新しい一戸建てである。「門倉」と表札がある。その家に、咲羅は入った。
「ただいま」と、すでに明かりのともった玄関で疲労のにじんだ声を出した。すると、ぱたぱたと駆け足の音が近づいてきた。
「さーちゃんおかえり!」
三、四歳の男の子が、扉の向こうから飛び出してきた。たちまち咲羅は笑顔となる。彼女は両手を広げ、男の子を抱き上げた。
「たっくんただいま」
「ねえ僕えらいんだよ。ピーマン食べたんだよ」
「すごーい!たっくんはおりこうさんだね」
そこへ、母の晴江が現れた。彼女は現在四十五歳である。しかし小柄で童顔のためか、実年齢よりも若く見える。
「咲羅おかえり。疲れたでしょ。ごはんできてるよ。拓斗はパパとお風呂に入ってきなさい」
この拓斗という男の子は、咲羅の歳の離れた弟なのである。職場の上司だった男性と晴江が再婚したのは、六年前のことだ。以前、かたくなに再婚を拒んでいた晴江の口から、
「あなたのパパほどのいい男ではないけれど、私、その人を好きになったみたいなの」
その言葉を聞いたとき、咲羅はとても喜んだ。亡き父親の面影を引きずって、自分の幸せに背を向け続けた母が、自分の人生を歩み出したことが嬉しかった。
咲羅は四人がけのダイニングテーブルに一人座り、夕食を食べ始めた。エプロン姿の晴江は、台所で立ち働いている。義父と拓斗は入浴しているようだ。
風呂から上がった義父の門倉敏郎が、拓斗とともに台所に入ってきた。拓斗が咲羅のそばへ駆け寄ってきた。
「ねーねーさーちゃん、遊ぼうよ」
咲羅はおもわず顔がほころびる。歳の離れた弟がかわいかった。彼女ははしを置き、拓斗を抱き上げようとした。そのとき、晴江の声が飛んできた。
「こらたっく!お姉ちゃん今ご飯べてるでしょ」
晴江に注意され、拓斗は「はーい」とつまんなさそうに返事した。彼は隅のおもちゃ箱へ向かい、ミニカーを取り出した。「ぶっぷー」と言いながら、床を走らせ始めた。
敏郎は、タオルで頭を拭きながら、
「咲羅ちゃんおかえり」
と気さくに言い、冷蔵庫からビールを取り出した。
「咲羅ちゃんも飲むよな」
彼は咲羅の返事を待たずして、咲羅にビールを手渡した。彼女は笑顔で受け取った。
敏郎は晴江の一歳年上の四十六歳。晴江との結婚が初婚だった彼は、まじめで仕事熱心な、優しい人柄である。晴江の再婚により、咲羅の名字は吉岡から門倉に変わった。成人してからできた父親は、親というよりも兄のような存在で、晴江と同じく彼を「敏郎さん」と呼んでいた。
敏郎は咲羅の向かいの席に座り、ビールのタブを開けた。
「咲羅ちゃん、今日確か初出勤だったよな。新しい学校どうだった?」
咲羅もビールのタブを開けた。それをのどに流し込み、「うーん」と言葉を選んだ。
「別に、普通だよ」
そう受け流そうとした。しかし、敏郎の食事を運んできた晴江が口を挟んだ。
「咲羅すごいのよ。なんと母校に赴任になったの」
「へえ、すごい偶然だね。知ってる先生とかいたんじゃない?」
敏郎は興味を持ったようだ。
「ううん。誰もいなかった」
咲羅はビールを口に運びながら、そっけなく答えた。すると、晴江は何かひらめいたように、
「そういえば、咲羅、高校のとき好きな先生いたわよね。名前なんて言ったっけ」
咲羅は動揺し、あやうくビールでむせるところだった。
「へえ咲羅ちゃん、そんな人いたんだ。どんな先生?」
四つの輝いた目を前に、咲羅はしぶしぶ、「安藤先生」と、どうでもよいことのように答えた。
「そうそう、安藤先生。彼、今どこの高校にいるの?まだ独身?美術の先生同士、顔を合わせることもあるんでしょ?」
咲羅と安藤をつなぐ線を探ろうとする晴江の口ぶりに、咲羅はうんざりした。
「安藤先生は高二の終わりに先生やめて、パリに行ったのよ。それ以来知らない」
それを聞いて、合点がいったように晴江の目が光った。
「ああ、それで咲羅、大学の卒業旅行でパリに行ったんだ。あのとき、行き先をローマとパリでもめてるって言ったじゃない。何が何でもパリに行きたかった理由は、安藤先生がいるからだったのね。で、先生には会えたの?」
「もう!そんなんじゃないってば!先生に会うためにパリに行ったわけじゃないし、今初めてそんな先生がいたなって思い出したくらい、先生のことなんて何とも思ってないんだから!」
咲羅は缶に残るビールを一気にあおると、「お風呂に行ってくる」と言って、逃げるようにその場を後にした。
「ただいま」と、すでに明かりのともった玄関で疲労のにじんだ声を出した。すると、ぱたぱたと駆け足の音が近づいてきた。
「さーちゃんおかえり!」
三、四歳の男の子が、扉の向こうから飛び出してきた。たちまち咲羅は笑顔となる。彼女は両手を広げ、男の子を抱き上げた。
「たっくんただいま」
「ねえ僕えらいんだよ。ピーマン食べたんだよ」
「すごーい!たっくんはおりこうさんだね」
そこへ、母の晴江が現れた。彼女は現在四十五歳である。しかし小柄で童顔のためか、実年齢よりも若く見える。
「咲羅おかえり。疲れたでしょ。ごはんできてるよ。拓斗はパパとお風呂に入ってきなさい」
この拓斗という男の子は、咲羅の歳の離れた弟なのである。職場の上司だった男性と晴江が再婚したのは、六年前のことだ。以前、かたくなに再婚を拒んでいた晴江の口から、
「あなたのパパほどのいい男ではないけれど、私、その人を好きになったみたいなの」
その言葉を聞いたとき、咲羅はとても喜んだ。亡き父親の面影を引きずって、自分の幸せに背を向け続けた母が、自分の人生を歩み出したことが嬉しかった。
咲羅は四人がけのダイニングテーブルに一人座り、夕食を食べ始めた。エプロン姿の晴江は、台所で立ち働いている。義父と拓斗は入浴しているようだ。
風呂から上がった義父の門倉敏郎が、拓斗とともに台所に入ってきた。拓斗が咲羅のそばへ駆け寄ってきた。
「ねーねーさーちゃん、遊ぼうよ」
咲羅はおもわず顔がほころびる。歳の離れた弟がかわいかった。彼女ははしを置き、拓斗を抱き上げようとした。そのとき、晴江の声が飛んできた。
「こらたっく!お姉ちゃん今ご飯べてるでしょ」
晴江に注意され、拓斗は「はーい」とつまんなさそうに返事した。彼は隅のおもちゃ箱へ向かい、ミニカーを取り出した。「ぶっぷー」と言いながら、床を走らせ始めた。
敏郎は、タオルで頭を拭きながら、
「咲羅ちゃんおかえり」
と気さくに言い、冷蔵庫からビールを取り出した。
「咲羅ちゃんも飲むよな」
彼は咲羅の返事を待たずして、咲羅にビールを手渡した。彼女は笑顔で受け取った。
敏郎は晴江の一歳年上の四十六歳。晴江との結婚が初婚だった彼は、まじめで仕事熱心な、優しい人柄である。晴江の再婚により、咲羅の名字は吉岡から門倉に変わった。成人してからできた父親は、親というよりも兄のような存在で、晴江と同じく彼を「敏郎さん」と呼んでいた。
敏郎は咲羅の向かいの席に座り、ビールのタブを開けた。
「咲羅ちゃん、今日確か初出勤だったよな。新しい学校どうだった?」
咲羅もビールのタブを開けた。それをのどに流し込み、「うーん」と言葉を選んだ。
「別に、普通だよ」
そう受け流そうとした。しかし、敏郎の食事を運んできた晴江が口を挟んだ。
「咲羅すごいのよ。なんと母校に赴任になったの」
「へえ、すごい偶然だね。知ってる先生とかいたんじゃない?」
敏郎は興味を持ったようだ。
「ううん。誰もいなかった」
咲羅はビールを口に運びながら、そっけなく答えた。すると、晴江は何かひらめいたように、
「そういえば、咲羅、高校のとき好きな先生いたわよね。名前なんて言ったっけ」
咲羅は動揺し、あやうくビールでむせるところだった。
「へえ咲羅ちゃん、そんな人いたんだ。どんな先生?」
四つの輝いた目を前に、咲羅はしぶしぶ、「安藤先生」と、どうでもよいことのように答えた。
「そうそう、安藤先生。彼、今どこの高校にいるの?まだ独身?美術の先生同士、顔を合わせることもあるんでしょ?」
咲羅と安藤をつなぐ線を探ろうとする晴江の口ぶりに、咲羅はうんざりした。
「安藤先生は高二の終わりに先生やめて、パリに行ったのよ。それ以来知らない」
それを聞いて、合点がいったように晴江の目が光った。
「ああ、それで咲羅、大学の卒業旅行でパリに行ったんだ。あのとき、行き先をローマとパリでもめてるって言ったじゃない。何が何でもパリに行きたかった理由は、安藤先生がいるからだったのね。で、先生には会えたの?」
「もう!そんなんじゃないってば!先生に会うためにパリに行ったわけじゃないし、今初めてそんな先生がいたなって思い出したくらい、先生のことなんて何とも思ってないんだから!」
咲羅は缶に残るビールを一気にあおると、「お風呂に行ってくる」と言って、逃げるようにその場を後にした。