続・マドンナブルー
咲羅が逃げるように出て行った先を、晴江と敏郎は、ポカンと見つめた。最初に敏郎が口を開いた。

「あーあ。咲羅ちゃん怒らせちゃった」
「困ったわね。あの子、大学のときとか、恋人がいたことがなかったみたいなの。まさかと思ったけど、高校時代に好きだった先生を、いまだに想ってたなんて・・・・・・」
「考えすぎじゃないか?君が知らないだけで、恋人の一人や二人いただろう。咲羅ちゃんかわいいんだし」
「だといいんだけど。でも、あの子が高校時代に安藤先生の話をしていたときの、あのキラキラした目、私一度も見たことがないの」
「その先生が忘れられなくてってことか。安藤先生ってのは、罪な男だな。若い女性の人生を、こんなにまで狂わせてるなんて」

 二人が、咲羅の恋愛事情を話し合っているとき、咲羅は湯船に浸かっていた。気持ちを落ち着かせたかったが、くさくさした気分は膨らむばかりだった。

 高二の終わりに安藤がパリに立ってから、九年が経つ。その九年間、咲羅の心の隅に、いつも彼はいた。その隅の存在が、母校の美術室に足を踏み入れたことにより、急激に表舞台に現れた。

 彼を感じるのは、心に限ったことではない。体の中に、彼が潜む気配もあった。大学四年のとき、友人たちの中で、男性経験がないのは咲羅一人となっていた。好意を寄せてくれる人と、付き合ってみようと試みたことは幾度かあったが、デートを重ね関係が深くなり、いざ性行為に及ぼうとすると、彼女の体は拒絶反応を起こした。嘔気を催すのだった。そうすることで、彼女の体を保護しているように感じられた。そんなとき、無数の細胞の中に安藤が存在するのを、強く感じた。

 こんなことを何度か繰り返すうちに、相手の男性との関係は、自然と終息へと向かっていった。これらの経験が、咲羅の恋愛に対する姿勢を消極的にした。

 入浴直前にビールを飲んだため、咲羅はのぼせてしまった。たまらず湯から上がった彼女は、ふと、鏡に映る自分に目を留めた。高校生のころと比べて、少しやせたと思う。それ以外、大きな変化はない。この体を安藤が見たのだと思うと、虚しさの混じった高揚が、体の芯から熱く広がった。

 高二の冬、安藤のアパートの一室で、咲羅がデッサンのモデルとなったとき、確かに彼とつながる感覚があった。心の隅で眠っていた感覚が、急激に表舞台に出てきた理由は、言うまでもなく美術室にある。今朝八年ぶりに美術室のドアに手を触れたとき、緊張と高揚が高まった。そして視界が白く開けると、彼女の目は、無意識に安藤を探していた。これから毎日、こんな虚しい習慣が続いていくのかと思うと、気が重かった。そのため安藤との思い出のつまった美術室は、彼女にとって懐かしい場所ではなく、煩わしい空間に他ならない。なにせ九年という歳月、彼からの音沙汰がないのである。その間中、呪縛のように彼の面影に悩まされてきたことは、自分の独り相撲にすぎないのだということを、咲羅は充分すぎるほど分かっていた。
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