続・マドンナブルー
 咲羅が杜のアパートを訪れたときにはもう、梅田は来ていた。杜と二人ですでに飲んでいるようだった。

「咲羅、久しぶりだね」

 彼は感激した様子で言った。

「陽一君久しぶり。聞いたよ、副編集長になったんだってね。さすがだね。おめでとう」
「めでたくなんかないよ。クレーム処理とか社員の愚痴の聞き役とか、そんな仕事ばかり増えちまって」

 と、彼は控えめに笑った。そこに、頼もしい大人の男の余裕が感じられた。そして、彼は相変わらずのハンサムである。

「咲羅ー、適当に座っててー」

 キッチンから美奈子の声が飛んできた。彼女はつまみの用意などをしているのだろう。座っててとは言われたが、ここは美奈子を手伝うべきだと思い、咲羅はコートを脱ぐとキッチンへ向かった。美奈子は赤ちゃんをおんぶして料理をしていた。

 彼女たちがキッチンで立ち働いていると、来客に挨拶しようと二人の女の子が恥ずかしそうにやってきた。美奈子と杜の子供たちである。二人ともかわいい顔をしている。彼女たちにプレゼントを用意していた咲羅は、それを二人に渡した。

「ありがとう」

 二人は笑顔でプレゼントを受け取った。長女と杜との間に血縁はない。しかしその子の笑った顔が、どことなく杜と似ているような気がした。杜が本当の子供としてかわいがっているのだろう。

 同級生四人はテーブルにつき、乾杯した。

「それにしても、梅田君ってば急よね。お正月もろくに帰って来ないのに、今回急に帰って来るって連絡きたんだもん」

 美奈子が言った。

「こっちで突然仕事が入ったの?雑誌だから、取材とか」

 咲羅が言った。すかさず美奈子が、

「取材~?!なんかかっこいいことしてるね~」
「ちがうよ。仕事で帰って来たわけじゃないんだ。まあちょっとな・・・・・・」

 梅田が困ったように答えていると、だいぶ前から飲んでいて、すっかりできあがった杜が彼に絡み始めた。

「俺のぬくもりが恋しくなったんだよな。ようちゃん俺も会いたかったわ~」

 杜は梅田に抱きつき、みんなどっと笑った。

「おい酒臭いからやめろって。そうだよお前に会いたかったんだよ~」
「ほんとに~?浮気しちゃだめよ~」

 みんなげらげらと笑った。こんなに笑ったのはいつ以来だろうと思うほど楽しかった。

「それにしても、杜はすげーよな。その歳で三人の父親なんて。子供はみんなかわいいし、ほんと充実しててうらやましいよ」

 梅田が言った。

「おまえのほうがすげーよ。副編集長って、長がつくってことは偉いってことだろ?給料いっぱいもらってるんだろ?」
「そうよそうよ。うちは貧乏子沢山って感じでしょ?私、本当は世界をまたに掛けるような生活を夢見てたのに」

 美奈子はそう嘆いた。もちろん冗談だ。そのためみんな笑った。

「ところで、咲羅教員試験合格おめでとう」

 ふいに、梅田は改まった様子でふってきた。

「やだなーそんな改まって。ぜんぜんすごくないし。四年もかかったし」
「いやすごいよ。この少子化の時代に。しかも需要の少ない美術だろ?」
「去年たまたま退職者が多かったみたいなの。だから運がよかっただけよ」
「それも、俺らの母校で教えてるんだってな」

 梅田のその言葉は、咲羅を高校時代に引き戻す。暗がりの廊下が開けて、青い広がりに日の光がキラキラと反射する海洋の風景・・・・・・。そしてそれを眺める、逆光となった大きな背中・・・・・・。

 くしゃくしゃした記憶ではもうない。しょっぱくて、暖かくて、懐かしい記憶だ。同級生四人に母校と美術室。・・・・・・となると安藤の名前が四人の会話に登場してもよいのだが。咲羅が彼に触れないわけは、彼の記憶を大事に思っているからだ。秘密の宝箱を開けるようで、そっととっておきたかった。美奈子の脳裏にも安藤が浮かんでいた。しかし彼女が彼に触れない理由は、咲羅にとって、いまだ彼の存在がいわくつきのものであると感じていたからである。

「いいよなー。咲羅は美術に多く関われる仕事でさ。俺はまあ安定した仕事にはついたけど、美術を楽しむってことからは逸れたような気がする。記事の編集ばっかりだよ」
「私も陽一君とたいして変わらないよ。生徒の作品に手を加えたりする程度で、じっくりと自分の作品を制作するなんてことしばらくしてない」
「じゃあ好きなことを全力でやっているのは、安藤だけなんだな」

何気ない様子で梅田は言った。安藤の近況を知っているような、そんな口調である。

「安藤先生が何をしてるのか、知ってるの?」

 とくんとくん、と鼓動が大きく打ち始めた。その音が漏れていないかと気にしながら、咲羅は苦労して平静を装った。梅田はにやっと笑った。できるだけじらしてやろうか、とでも言ったような、いたずらっぽい笑いだった。

「うちで来月発刊するものなんだけどね」

 梅田はバッグの中から雑誌を取り出した。それをぱらぱらとめくり目的の箇所を探し当てると、開いた状態で咲羅に手渡した。隣に座る美奈子も記事を覗き込んだ。

 初めにびっくりした声を出したのは美奈子だった。

「これって安藤先生じゃない!」

 彼女たちの視線の先に、安藤の顔写真がカラーで載っていた。 “ 海外で活躍する日本の芸術家たち ” という見出しが記されている。

「フランスの大きな美術展で、去年安藤の作品が入賞したんだ。人物がの名手として、今パリで注目されてるんだよ」 

 梅田はそう説明した。咲羅は安藤の写真を見つめ、茫然としていた。彼は生きていたのだ! と思う。そりゃあどこかで生きていると思ってはいたが、咲羅の中の安藤は、すでに死んだものとなっていた。彼が生きながらえてきた証のように、頭髪には白いものがちらほらと混ざり、以前はなかったシワが、うっすらと刻まれている。

「次のページも見て」

 梅田に促され、咲羅はページをめくった。・・・・・・心臓が飛び出るかと思った。先ほど梅田の説明にあった、安藤の受賞作に違いない油彩画が、ページの上半分に掲載されていた。下半分には、彼の作品かどうかの判別はつかないが、四点の絵画がある。その上部の作品の作者が安藤であると、咲羅は瞬時に察したわけなのだが、それには理由があった。そこに描かれているモデルは、咲羅なのだった。

 全体が深い青味がかっており、人物ははかなげで、ぼんやりと曖昧なタッチで描かれている。咲羅と断定するには特徴が不足とも思えるが、咲羅はこれが自分であるという確信があった。高二の冬、咲羅は安藤のデッサンのモデルになったのだが、そのときのデッサンを油彩画に起こしたものに違いない。しかし、当時彼女はそのデッサンを見ることなく彼のアパートを飛び出していた。そのためこれが、初体面となった。それにしても、なぜ安藤は九年の時を経て、今さら、という疑問が沸いてくる。

 一緒に見ていた美奈子が、

「ねえ、これって・・・・・・」

 そう言いかけ、口をつぐんだ。高二の冬の出来事を、咲羅は美奈子に話したことがある。そのため、美奈子は絵のモデルが咲羅であると気づいたようだ。話を中断したのは、男性陣の目を気にしたからに違いない。何せ、絵の中の咲羅は全裸なのだ。

「綺麗な人ね。安藤先生の恋人かな」

 美奈子はそうごまかした。安藤の恋人と聞いて、初めて杜は興味を示した。「どれどれ」と言ってわざわざ立ち上がり、女性二人の背後から覗き込んだ。

「ぎゃははは!安藤のやつこんな若い子とやってんだ。うらやましいやつ」

 酔った杜は、下劣にそう言った。美奈子はあわてて立ち上がり、

「ちょっとあんた飲みすぎよ!」

 杜の暴走を止めようと、美奈子は杜の背中を押してドアへ向かった。

「おい何すんだよ~」
「いいの。あんたは少し酔いを覚ましなさい」

 そのまま二人は部屋から消えていった。梅田の突然の帰省の理由に、おおよその見当がついた美奈子は、梅田と咲羅を二人きりにしたほうが、話もしやすいだろうと気を使ったのだった。

 部屋には咲羅と梅田の二人きりとなり、がらんとした。しかし咲羅の中には、杜夫婦の去る前の喧騒も、まったく入ってはいなかった。相変わらず、茫然と、紙面を見つめている。

「咲羅は今でも安藤を好きなんだってな」

 その声で、咲羅はハッとした。

「ああごめん。前に髙木に聞いたんだ。咲羅はまったく男を作ろうとしないって。安藤からラブレターみたいなものをもらったもんだから、安藤をいつまでも待ってるんじゃないかって」

 確かに以前はそうだった。しかし、もう済んだことである。

「そんなことないよ」

 そう口に出すことで、自分を納得させようとした。安藤が自分の絵を発表した訳を掘り下げようという気は起きなかった。九年という年月が、彼と接点を持つことを逡巡させた。

「俺は絶対に会いに行くべきだと思う。あいつの近況がわかったわけだし、当たって砕けろで思いのたけをぶつけてすっきりしたほうがいいんじゃないか?」

 それはそうなのだが・・・・・・、やはり臆してしまう。気まぐれに思い立ち、描いたにすぎないのではないか、と思ってしまう。

 咲羅はふたたび紙面に目を落とすと、絵画のタイトルが目に留まった。『マドンナブルー』と記されている。それが、藍に近い深い青を示す群青色だということはわかるのだが、彼がそう題した真意まではつかみかねた。

「群青色を別名マドンナブルーというわけ知ってる?」

 咲羅の胸中を察したかのように梅田が言った。咲羅は首を横に振る。

「昔、天然の群青の顔料は貴重品だったんだ。そのため東洋でも西洋でも、至上の存在を描くときだけに用いられてたんだよ。西洋では、聖母マリアの衣服の色とされたから、この別名がついたんだって」
「・・・・・・」
「あいつ、いまでも咲羅を大事に思ってるんじゃないかな。咲羅からしたら、自分に気があるなら少しくらい音信があってもいいはずだ、って不満に思うだろうけど、安藤の気持ちもわからなくもない。生徒が教師を好きになるのは、一時的な憧れがほとんどだろうし、咲羅の前に姿を現すことは、咲羅の迷惑になってしまう、なんて考えたんじゃないか?」

 なおも決心つきかねるように黙る咲羅に対し、梅田は、

「ともかくパリに行けよ。絶対行け!そしてすっきりしてこい。咲羅が幸せじゃないと、俺が困る」
 

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