続・マドンナブルー
 三月、咲羅は二度目のパリの地を踏んでいた。安藤の個展の時期と高校の春休みが、ちょうど重なっていたので難なく連休を取れたのだった。暗中模索した前回の渡仏と違い、今回は確実に安藤と会える保証がある。・・・・・・でも、会ってどうする?あなたを今でも好きで、個展の開催を知って、いても立ってもいられずにパリまで押しかけたと告白する?それとも偶然を装って、「ひょっとして安藤先生ですか?」とでも言う?

 咲羅は安藤の近況を知ってからの数ヶ月間、考えがまとまらず、自問自答を繰り返してきた。答えを見出せない状態で今日を迎えてしまった。

 目的の画廊はすぐに見つかった。五階建てのビルの一階で、門前には個展を知らせるポスターの貼られた看板が、堂々と置かれていた。ポスターには数点の絵画(一つは咲羅がモデルのもの)と、安藤の顔写真を印刷したものが示されている。画廊への人の往来は、ずいぶんと盛んなようだった。

 咲羅が画廊に踏み込むと、カウンターに立つ受付係に迎えられた。咲羅より少し年上くらいのブロンド美人だった。彼女の作り笑いが、咲羅の顔を捉えたとき、一瞬固まったような気がした。

 展示されている絵画は、どれもすばらしかった。それらを鑑賞しながら安藤を探した。

 彼は、すぐに見つかった。ひときはにぎわっている区画に彼はいた。その壁面に、咲羅がモデルの例の絵画が掲げてある。それを人々は熱心に見ていく。何だか、咲羅は自分が衆目にさらされている錯覚を起こした。

 安藤はとくに中年太りしたわけでもなく、以前と変わらずがっちりとした大柄な体格で、繊細で華麗な彼の作風とは真逆な感じだった。彼は、客の一人と話している。その様子を、咲羅は少し離れた場所から眺めた。控えめに笑うところも、あどけなさが残るような少年っぽい大きな目も、まったく変わっていなかった。

 咲羅は我を失ったように、ぼんやりと安藤に見とれていた。すると、彼は特別な気配を感じ取ったのか、おもむろに咲羅のほうを向いた。

「吉岡じゃないか!」

 安藤の大声で、咲羅は我に帰った。彼は嬉しそうに咲羅のそばにやってきた。

「吉岡だよな。うわあ何年ぶりだろう。元気にしてたか?パリには旅行で来たの?見ないうちに大きくなったなあ」

 彼は興奮して話した。久々に会う親戚の子供にかけるようなせりふに、咲羅は緊張が解けて笑った。

「ちょっと先生。私中三で身長とまったんですけど」
「ああそうかそうか。じゃあやせたかなあ。だから背が高く見えるのかなあ」
「たぶん靴のヒールのせいです」
「なるほどなるほど」

 そんな他愛ない会話をした。彼の喜ぶ姿に、咲羅はほっとした。彼の前に姿を現すことは、彼にとって迷惑ではないだろうかと心配していたのだ。

「それにしても、僕がここで個展を開くことをよくわかったね。日本で雑誌かなんかで見たの?」

 彼は、咲羅が個展を目的として来たものと決めつけたような口調で言った。それはそうなのだが、それを隠そうとする動きが、彼女の心で起きた。

「ここに来たのは偶然なんです。パリに一人で旅行に来ていて、たまたま街をぶらぶら歩いてたら、先生の写真の入った看板を見つけて」
「そうかそうか」

 安藤は相変わらずにこにこしていた。古い教え子の突然の来訪に、興奮がいまだ冷めないようだ。

「お腹すいてないか?積もる話もあるし、昼飯一緒に行こう」

 そう誘われ、一瞬迷うそぶりを見せ(本当は飛び上がりたいほど嬉しいくせに)、「はい」と控えめに返事をした。それから二人は会場の出口に向かい、客の間をすり抜けていった。会場を出ると、先ほどの受付係のブロンド美人がいた。

「ちょっと待ってて」
 
 安藤はそう言うと受付係のところへ行き、何か彼女に話していた。受付係のほうは、うんうんとうなずいているだけのようだった。話が終わり、安藤が咲羅のほうに向き直ったとき、受付係の目は光を放つようにして、咲羅の全身を捉えた。その瞬間、咲羅は怖気づいたように足がすくんだ。

「ごめんごめん、さあ行こうか」

 二人の女の間に起こった、ちょっとした無言のやり取りなんて気づくはずもない安藤は、のんきに言った。

 ビルを出た二人は、近くのサンドウィッチの専門店へ入った。赤地の看板に、金色の文字で店名が記されている。それが、パリっぽくておしゃれだと感じた。店内は混雑していた。いわゆるファストフード店のようで、カウンターで注文して料理を受け取るシステムらしい。

「適当に注文してくるから席取っておいて。嫌いな食べ物ない?」
「大丈夫です」

 安藤は注文待ちの列に並んだ。咲羅は苦労して見つけた二人がけのテーブルにつき、彼を待った。数分後、彼は二つのトレーを持って現れた。

 食事中に彼が、

「吉岡は教員になったそうじゃないか。しかも母校で教えてるんだって?」

 と、意外なことを知っていた。

「え!何で知ってるんですか。やだ~こわい」

 嬉しいくせに、素直になれない。

「こわいとはなんだ。去年日本に帰ったとき、たまたま知ったんだよ。教師をやっていたときの同僚たちと会う機会があって、そのときに小耳に挟んだんだよ」
「へーそうなんですか。日本にはよく帰ってたんですか?」
「年に一度は。父親がまだ生きてるし、墓参りとかもしたいしね」
「へー」とだけ咲羅は返した。
「あらためて、吉岡おめでとう。高校のとき、美術関係の仕事に就きたいって言ってたよな。夢を叶えるなんてすごいじゃないか。教えた側として、これほど嬉しいことはないよ」

 そう笑顔で言われ、咲羅は顔を赤くした。

< もう何赤くなってんのよ!そんな言葉にだまされて! >

 そう警鐘を鳴らした。この場にいることを後悔し始めていた。安藤は毎年日本に帰国していた。彼は咲羅の住所を知っていたはずなのだから、少しくらい音信があってもよさそうである。数年前、母の再婚で転居したが、彼は咲羅が教師になったということを知っており、勤務地まで知っていた。しかし、彼からはなんのアクションもなかった。咲羅は、ふいに投げ込まれた巻き糸をすがるようにしてたぐり寄せた結果、今、この場所にいるのだ。自分がひどく惨めに思えてきた。彼は、自分にさほどの関心はなかった・・・・・・。

 もうやけくそで、開き直ってやろうと思った。咲羅はサンドウィッチを思いっきりかぶりついた。おいしかった。ツナとゆで卵と、たっぷりの野菜が挟んである。ヘルシーで、いかにも女性受けするものだった。一方の安藤は、肉たっぷりの男っぽいものを食べていた。いずれも彼のチョイスである。こなれた感じだった。彼はよく女性と来ているのかもしれない。咲羅は、ふっとさっきの画廊で受付係をしていたブロンド美人を思い浮かべた。

「画廊の受付にいた人、綺麗ですね。もしかして先生の彼女ですか?」

 私は何も気にしてません。そうアピールしたかった。それに、傷つく度合いが深いほうが、諦めもよくなって立ち直りが早いかもしれない。

「ああ、クロエのこと」

 欧米では、日本と違ってファーストネームで呼び合うのが普通なのだろうが、彼の口からでる女性のファーストネームは、生々しく、ちくちくと咲羅の胸を刺した。

「まさかちがうよ。ただ求人してやとったバイトのこだよ」

 彼はおおらかにほほ笑んだ。そんなこと気にして馬鹿だなあ。なんて言っているようだった。そうなると、彼のことがわからなくなってくる。もうすっぱり忘れてしまいたいのに、何か期待してしまう。

 昼食を終え、二人は店外に出た。

「今晩なにしてる?」
「えーと今晩は、ご飯食べて、美術館とか行って、買い物して、セーヌ川見に行って、映画を観るかもしれません」

 咲羅は思いついたことを全部言った。私は何も期待してません!と無意識にアピールしていた。安藤はアハハハッと笑い、

「久しぶりに会ったというのにつれないなー。飯くらいおごらせてくれよ。積もる話もあることだし」

 しぶしぶという感じに咲羅は「わかりました」と返事した。もちろん本心は飛び上がりたいほど嬉しい。彼と、今夜一緒にいられるなんて。長年想い続けてきた安藤と・・・・・・。その心境を彼に悟られたくなかった。自分の想いは一方通行に思えてならない。できるだけ、傷の度合いを最小限に抑えたかった。

 今晩の約束を取り交わし、二人は別れた。安藤が去っていく後姿を、咲羅はぼんやりと眺めた。筋肉質でたくましい大きな体が、かっちりとしたグレーの背広の下できびきびと動いている。咲羅のよく知る昔の彼に比べて、頼もしく、自信にあふれているようだった。

 彼は去ってしまったが、今夜、ふたたび彼と会える。そのことに、咲羅の胸は躍った。

 
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