続・マドンナブルー
その日の夕方、約束の時間ちょうどに安藤は咲羅のホテルに来た。フロントの電話を使い、到着を知らせてきた。
五分後、支度を終えた咲羅がロビーに下りていくと、ジーパン姿の安藤が、ソファに腰掛けて新聞を読んでいた。画廊で見た背広姿の彼の立派な雰囲気から、てっきり咲羅は、彼が案内する店は、真っ白いテーブルクロスにたくさんのフォークとナイフの並べられた、かしこまった場所を想像していた。そのため、彼女は念入りにめかしこんでいた。もちろん理由はそれだけではないが・・・・・・。
安藤は、咲羅に気づくと立ち上がった。咲羅は肩より少し長い髪をアップにし、ラフにまとめていた。Vネックのラベンダー色のニットワンピを着ており、それが、彼女の輪郭線を美しくすっきりと見せていた。安藤は、咲羅に見とれているようだった。
「誰かと思った。なんだか知らない人といるみたいで緊張するな」
と、彼は気恥ずかしそうに笑い、そう言った。
安藤の案内した店は、ホテルから徒歩で十分ほどの場所にあった。家庭的な、気取らない雰囲気の店内だった。
二人は向かい合って座り、注文した鶏肉料理を食べていた。なんだかお互い緊張し、ナイフとフォークのかちゃかちゃした音ばかりが響いていた。
「同級生たちはどうしてる?」
しばしの沈黙の後に安藤が言った。咲羅はナイフとフォークを持つ手を止め、
「杜と美奈子の間に、三人の子供がいます。しかもみんなかわいい女の子なんです。陽一君は藝大を出てて、その後出版社に就職しました。なんと美術系の雑誌の副編集長をしてるんですよ」
すごいでしょ、というように咲羅は言った。
「あの杜が三人の父親とはね。頼もしい男になったもんだなぁ。梅田はさすがだな。あいかわらずスマートな男なんだろうなぁ」
「はい」
「みんなたいしたもんだな」
「はい」
ふたたびうなずき、咲羅は肉のかけらを口に運んだ。二人の間には、いまだ緊張と、気詰まりな空気があった。咲羅は、無意識に同級生たちの活躍の陰に隠れようとしていた。その後会話は途切れ、咲羅は黙々と食べた。なかなか、安藤の顔を見ることができない。そんな彼女の様子を、安藤はナイフとフォークを宙にとどめた状態で観察していた。
「吉岡は?」
どきりとして、咲羅は安藤を見た。
「吉岡は?君はどうしてた?」
そこに眼目があるというように、安藤の口調は改まっていた。咲羅はすぐに言葉が出なかった。自分に、同級生たちのような誇れることがあっただろうか・・・・・・。
「私、ハーフマラソンを完走しました」
苦し紛れにそう言った。
「え!君がマラソン!?」
と、彼は驚いた声を出した。
「そんなに意外ですか?」
ちょっとむっとした。
「冗談だよ。今日一目見たときから、おっ何かやってるなってわかったよ。姿勢もよくなって、吉岡は芯の強い大人の女性って感じになったよな」
条件反射のように、咲羅は赤くなった。アルコールのせいなのだと思わせるように、グラスに残る赤ワインを一気に飲んだ。
「それにしても、ヨーロッパに一人旅なんてたくましいな」
「はい。一度大学の卒業旅行でパリに来たんです。でもそのときはゆっくりできなくて。いつかまた来たいなと思ってたんです」
とでまかせを言った。
「卒業旅行というと、五年位前か。僕を訪ねてきたら、いろいろ案内したんだけどな」
「それは惜しいことをしました。先生がパリにいるのを覚えてたら、先生を探し出していろいろご馳走してもらったのに」
「吉岡は見かけによらず、いい食いっぷりだもんな」
安藤は陽気に笑った。咲羅は、すべて言ってしまおうと思った。ずっと安藤を想い続けてきたこと。前回の渡仏も今回も、目的は安藤に会うためだったこと・・・・・・。そのために来たのに、なかなか言い出せない。この期におよんで、傷つくことが怖くなった。言い出せないまま、時間だけがすぎていった。
やがて、食事を終えた二人は店を出た。さほど飲んだつもりはないが、長旅の疲労や緊張があいまって、咲羅は微酔していた。こんなときに慣れないハイヒールを履いてきてしまい、ホテルまで無事たどり着けるか心配だった。その不安は的中し、石畳の段差でバランスを崩してしまった。
「おっと」
反射神経のよい安藤が、すばやく咲羅の腕をつかんだ。そのため負傷したのは彼女のハンドバッグだけだった。口の開いた作りのバッグだったため、中身が石畳の上に散乱した。
「あー無用心だな」
彼は散乱した荷物を拾い上げながら、
「海外でこんなバッグで外歩いちゃだめだよ。日本人はただでさえ狙われやすいんだから、たちまちスリにあっちゃうよ」
咲羅は恥ずかしくて、返す言葉がなかった。安藤は、大きな手のひらに重ねられた荷物を咲羅に渡そうとした。そのとき彼はあることに気づき、手のひらのものを見返した。
荷物の一番上に、何かのカードがあった。どこかの店のメンバーズカードのようなものだ。彼は、それに釘付けとなった。
「門倉咲羅・・・・・・」
むしろ、なぜ他人のカードを咲羅が所持しているのか、という疑わしい気持ちで安藤はつぶやいた。しかし、その謎が解けるのにそう時間はかからなかった。
「君は、結婚したのか」
すぐに彼は笑顔を広げた。
「そうだよな。もうそんな歳だもんな。昔のイメージが強くて、そんなこと全然考えなかったよ。とりあえず、おめでとう」
誤解した彼は、そう祝福した。実はこのとき、咲羅にとって嬉しいことがあった。嬉しすぎて、彼女は泣きそうだった。それをこらえて・・・・・・、
「先生勘違いしてます」
「うん?」
「母が数年前に再婚したんです。私、小さな弟もいるんですよ。古い知人には、今でも吉岡と呼ばれてるんです。私もそのほうがしっくりくるし。だから、名字が変わったことを言い忘れてました」
「吉岡のお母さん、幸せになってよかったね」
安藤は、態度を変えずにそう寿いだ。
五分後、支度を終えた咲羅がロビーに下りていくと、ジーパン姿の安藤が、ソファに腰掛けて新聞を読んでいた。画廊で見た背広姿の彼の立派な雰囲気から、てっきり咲羅は、彼が案内する店は、真っ白いテーブルクロスにたくさんのフォークとナイフの並べられた、かしこまった場所を想像していた。そのため、彼女は念入りにめかしこんでいた。もちろん理由はそれだけではないが・・・・・・。
安藤は、咲羅に気づくと立ち上がった。咲羅は肩より少し長い髪をアップにし、ラフにまとめていた。Vネックのラベンダー色のニットワンピを着ており、それが、彼女の輪郭線を美しくすっきりと見せていた。安藤は、咲羅に見とれているようだった。
「誰かと思った。なんだか知らない人といるみたいで緊張するな」
と、彼は気恥ずかしそうに笑い、そう言った。
安藤の案内した店は、ホテルから徒歩で十分ほどの場所にあった。家庭的な、気取らない雰囲気の店内だった。
二人は向かい合って座り、注文した鶏肉料理を食べていた。なんだかお互い緊張し、ナイフとフォークのかちゃかちゃした音ばかりが響いていた。
「同級生たちはどうしてる?」
しばしの沈黙の後に安藤が言った。咲羅はナイフとフォークを持つ手を止め、
「杜と美奈子の間に、三人の子供がいます。しかもみんなかわいい女の子なんです。陽一君は藝大を出てて、その後出版社に就職しました。なんと美術系の雑誌の副編集長をしてるんですよ」
すごいでしょ、というように咲羅は言った。
「あの杜が三人の父親とはね。頼もしい男になったもんだなぁ。梅田はさすがだな。あいかわらずスマートな男なんだろうなぁ」
「はい」
「みんなたいしたもんだな」
「はい」
ふたたびうなずき、咲羅は肉のかけらを口に運んだ。二人の間には、いまだ緊張と、気詰まりな空気があった。咲羅は、無意識に同級生たちの活躍の陰に隠れようとしていた。その後会話は途切れ、咲羅は黙々と食べた。なかなか、安藤の顔を見ることができない。そんな彼女の様子を、安藤はナイフとフォークを宙にとどめた状態で観察していた。
「吉岡は?」
どきりとして、咲羅は安藤を見た。
「吉岡は?君はどうしてた?」
そこに眼目があるというように、安藤の口調は改まっていた。咲羅はすぐに言葉が出なかった。自分に、同級生たちのような誇れることがあっただろうか・・・・・・。
「私、ハーフマラソンを完走しました」
苦し紛れにそう言った。
「え!君がマラソン!?」
と、彼は驚いた声を出した。
「そんなに意外ですか?」
ちょっとむっとした。
「冗談だよ。今日一目見たときから、おっ何かやってるなってわかったよ。姿勢もよくなって、吉岡は芯の強い大人の女性って感じになったよな」
条件反射のように、咲羅は赤くなった。アルコールのせいなのだと思わせるように、グラスに残る赤ワインを一気に飲んだ。
「それにしても、ヨーロッパに一人旅なんてたくましいな」
「はい。一度大学の卒業旅行でパリに来たんです。でもそのときはゆっくりできなくて。いつかまた来たいなと思ってたんです」
とでまかせを言った。
「卒業旅行というと、五年位前か。僕を訪ねてきたら、いろいろ案内したんだけどな」
「それは惜しいことをしました。先生がパリにいるのを覚えてたら、先生を探し出していろいろご馳走してもらったのに」
「吉岡は見かけによらず、いい食いっぷりだもんな」
安藤は陽気に笑った。咲羅は、すべて言ってしまおうと思った。ずっと安藤を想い続けてきたこと。前回の渡仏も今回も、目的は安藤に会うためだったこと・・・・・・。そのために来たのに、なかなか言い出せない。この期におよんで、傷つくことが怖くなった。言い出せないまま、時間だけがすぎていった。
やがて、食事を終えた二人は店を出た。さほど飲んだつもりはないが、長旅の疲労や緊張があいまって、咲羅は微酔していた。こんなときに慣れないハイヒールを履いてきてしまい、ホテルまで無事たどり着けるか心配だった。その不安は的中し、石畳の段差でバランスを崩してしまった。
「おっと」
反射神経のよい安藤が、すばやく咲羅の腕をつかんだ。そのため負傷したのは彼女のハンドバッグだけだった。口の開いた作りのバッグだったため、中身が石畳の上に散乱した。
「あー無用心だな」
彼は散乱した荷物を拾い上げながら、
「海外でこんなバッグで外歩いちゃだめだよ。日本人はただでさえ狙われやすいんだから、たちまちスリにあっちゃうよ」
咲羅は恥ずかしくて、返す言葉がなかった。安藤は、大きな手のひらに重ねられた荷物を咲羅に渡そうとした。そのとき彼はあることに気づき、手のひらのものを見返した。
荷物の一番上に、何かのカードがあった。どこかの店のメンバーズカードのようなものだ。彼は、それに釘付けとなった。
「門倉咲羅・・・・・・」
むしろ、なぜ他人のカードを咲羅が所持しているのか、という疑わしい気持ちで安藤はつぶやいた。しかし、その謎が解けるのにそう時間はかからなかった。
「君は、結婚したのか」
すぐに彼は笑顔を広げた。
「そうだよな。もうそんな歳だもんな。昔のイメージが強くて、そんなこと全然考えなかったよ。とりあえず、おめでとう」
誤解した彼は、そう祝福した。実はこのとき、咲羅にとって嬉しいことがあった。嬉しすぎて、彼女は泣きそうだった。それをこらえて・・・・・・、
「先生勘違いしてます」
「うん?」
「母が数年前に再婚したんです。私、小さな弟もいるんですよ。古い知人には、今でも吉岡と呼ばれてるんです。私もそのほうがしっくりくるし。だから、名字が変わったことを言い忘れてました」
「吉岡のお母さん、幸せになってよかったね」
安藤は、態度を変えずにそう寿いだ。