記憶がどうであれ

4話

 主人が勤める会社は自社ビルを有してはないけれど、ビルの高層階にフロアがある。
 階段を日常的に使っているとは考えにくい。
 ならばどうして主人がたまたま使った階段で転落してしまった時、彼女が側に居たの?
 二人が一緒に歩いていたという事では?
 主人とともに行動するような仕事をしている人なのだろうか?
「あの…主人が転落した時側にいたそうですね。病院にも付き添ってきてくださったんですか?」
「ええ、話をしながら階段を下りていたんです。 その時足を踏み外して…私驚いて必死で呼びかけたんですけど、うめき声しか上げなくて。 すぐに救急車を呼びました」
「それはありがとうございました。 転落した時に一人では無かったことは幸いでした…」
「ええ」
「あの…主人と同じ営業の方ですか?」
「いえ、私は人事課です」
「そうなんですか」
 人事課…人事の関係で話があったと考えればよいのだろうけど、そうは思えない。
 どうして階段で…人目を避ける様な場所で話をしなければならなかったの?

 主人は、実は彼女に好意を持っていて人目を忍んで逢瀬を重ねていた…なんてことは無いだろうか。
 彼女と共に歩みたくなったという事は?
 私と結婚した事を後悔していたという事は?
 人生をやり直したがっていたという事は?
 ……解らない。
 私には解らない。
 主人からの愛情を一身に受けていると信じていた私は主人の行動に疑いの目を向けることは無かった。
 どんなに遅くに帰ろうと、その時女性物の香水の匂いを纏っていたとしても…
 営業での仕事の一環だと全て信じてきた。
 だけど、それらが全てこの彼女との逢瀬の証拠だとしたら?
 そんな事にも気づくことの出来ない鈍感な私を影で蔑んでいたのだろうか。
 私との結婚生活を後悔しながら…

 だから私との出会いの頃から全て忘れてしまったの?

 私達夫婦に子供は居ない。
 そして、結婚しても私は仕事を辞めていない。
 結婚前の様に一人で生きていくことは難しくはないだろう。


 家に案内し、結婚式の写真を見せ私が本当に妻であると説明した。
 それでも主人の表情は困惑の色。
 写真の中の主人は本当に幸せそうなのに…それを見ても私という存在を大切だと思ってはくれないのだ。
 こんな自信のない表情の主人を見るのは初めての事で、責めているような事を考えてしまう自分の方が悪いのかという気持ちにまでなってくる。
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