薄羽蜉蝣
第二章
「与之ーっ! 川に行こう!」

 いつものように長屋でごろごろしていた与之介の部屋に、これまたいつものように、子供の声が響いた。

「西瓜を冷やしてるんだよー」

「重いから、おっちゃんが引っ張り上げてよー」

 わらわらわら、と纏わりつく子供たちに引っ張られ、与之介は長屋を出ていく。
 その姿を、洗濯物を携えた娘が、ちょっと不思議そうに見ていた。

「おや、お佐奈(さな)ちゃん。洗濯かい」

 赤子を背負った嬶ぁの一人、お駒(こま)が声をかける。
 半月ほど前に長屋の住人となった娘は佐奈といった。
 元は長屋でも表店で、父親と二人で暮らしていたらしい。

 だが三年前に父親が何者かに殺され、長屋にいられなくなった。
 住まいを転々とした後、この小汚い裏店に流れ着いたということだ。

 そのわりに、卑屈さは微塵もない。
 世間の目を恐れるでもなく、いつも凛と前を向いている。
 泥の中で美しい花を咲かせる蓮のようだと、長屋の連中は佐奈を受け入れたのだった。

「あの方は、確か……」

「ああ、与之さんかい。何やってんのか、いまいちわかんない人だけどねぇ、まぁお武家さんにしちゃ愛想はいいし、子供の面倒もよく見てくれるから助かってるよ」

「お一人なのですか?」

 少し驚いたように、佐奈が言う。
 見たところ、与之介は若い。
 家族もいず、このような長屋で一人暮らしとは、どういう人なのか。

「そうだね、ずっと一人だよ。確か二十二だったかね。女が通ってきたこともないし」

 皆が皆、触れられたくない過去を抱えている。
 故にここでは、必要以上に詮索しない。
 不意にお駒が、にやりと笑った。

「お佐奈ちゃん、与之さんに興味がおありかい? いいと思うよ」

「えっ。い、いえ、そういうわけでは」

 佐奈が少し頬を染めて、ぶんぶんと手を振った。
 そのとき。

 ちりん---。

 通りの向こうから、風鈴の音が聞こえた。
 びく! と佐奈の身体が強張る。

「おや、氷売りかね。どれ、洟垂れどもが西瓜を取りに行ってるし、少し買っておいてやるかね」

 よっこらしょ、とお駒が立ち上がる。
 その後ろ姿を、佐奈は少し青ざめた顔で、ぼんやり眺めた。
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