君のいた時を愛して~ I Love You ~
二十九
 サチにとって病院は馴染みの少ない場所だった。
 物心ついたころには、母は色々な男と暮らすようになっていたから、サチの具合が悪くても『寝てれば治るわよ』の一言で済まされ、言葉通り、サチは一人、家で寝て過ごした。
 幸運にも、命にかかわるような大きな病気にかかったことはなく、年に一、二度風邪をひくくらいの健康に恵まれた子供時代だった。
 大きくなってからも同じようなもので、医者に会うのは多分、高校の健康診断の時以来だった。
 リサイクルショップの叔母さんに勧められた近くのクリニックを訪ねた。


 小さいけれど、明るくきれいな雰囲気の病院に、サチは大きく深呼吸してから足を踏み入れた。
「こんにちは」
 突然声をかけられ、サチは慌てて『こんにちは』と返した。
「初診の方ですか?」
 場にそぐわない、よそよそしい雰囲気のサチに、受付の女性は優しい笑みを湛えて問いかけてきた。
「あ、えっと、初めてで、どうしたらいいかわからなくて・・・・・・」
 サチは聞きなれない『初診』という言葉が、初めて受信する患者だという事に、受付と書かれたプレート脇の壁に貼られた『初診の方は保険証のご提示をお願いします』と書かれた紙を見て理解した。
「保険証をお願いします」
「あ、はい。保険証ですね」
 サチは慌ててバッグの中から財布を取り出し、保険証を女性に手渡した。
「お預かりいたしますね。では、おかけになってこの問診票の記入をお願いします」
 クリップボードを手渡されたサチは、空いている椅子に腰を下ろして眺めた。

(・・・・・・・・えっと、名前・・・・・・。中村幸っと・・・・・・、もう、本当に牧瀬幸じゃないんだ・・・・・・・・)

 サチは『中村幸』と書くと、残りの質問にも自分の症状を書き込んだ。
 書き終わった問診票を受付に渡し、サチはコータとつながっているPHSをぎゅっと握り締めて順番が来るのを待った。

「中村さん! 中村幸さん」
 男性の声で名前を呼ばれ、サチは立ち上がると『診察室』と書かれた部屋に入った。
「はじめまして、医師の佐伯といいます。よろしくお願いします」
 丁寧で、腰の低い医師にサチは慌てて挨拶をした。
「中村さんは、リサイクルショップの大槻さんのご紹介ですよね」
 医師は親し気に『大槻さん』と言った。
「あ、はい。そうです」
「大槻さん、いつも患者さんを紹介してくださるんですよ」
 笑顔で言うと、医師はサチの問診票に目を通し始めた。
「この症状、ずいぶん長く続いてるんですね・・・・・・」
「はい。それで、一度病院にって話になりまして・・・・・・」
「特に生理が不順とか、そういう婦人科系の症状はありますか? 妊娠しているとか言う事はありませんか?」
「いえ、ありません」
 サチは思い当たらなかったので、はっきりと言い切った。
 サチが言い切れるのには理由がある。身勝手な父親のせいで、苦労してコータを育ててくれ、若くして亡くなったコータの母のこと、そして、サチの母と情夫がサチになにをしたか、それを考えるとコータには計画性のない妊娠と出産はありえない。籍を入れた今、コータは自分の収入でサチと子供を養うことが出来るのか、真剣に悩んでいるようにサチからは見えた。
「そうですか・・・・・・」
 考え深げに医師は言うと、手書きで何かをさらさらと書いて看護師を読んで手渡した。
「いくつかの病気の初期症状の可能性がありますから、とりあえず、血液検査と尿検査をしておきましょう」
 医師の言葉に、サチはコクリと頷いた。
「じゃあ、こちらにいらしてください」
 看護師に言われるまま、サチは従って奥の処置室と言うプレートの貼られた部屋へと移動した。
 久しぶりに見る注射の針に、サチは思わず怖くて目を閉じた。
 考えてみると、駐車なんて、中学の頃の予防接種が最後だった。
「じゃあ、手をここの上においてくださいね」
 好感度抜群の看護師に言われるまま、サチは腕を言われた場所に置いた。
「肘の上まで、袖をあげてくださいね」
「あ、はい」
 サチは慌てて袖をまくった。
「ちょっと量が多いので、注射器で血をとりますからね」
 看護師は言うと、太く大きな注射器を取り出した。
「採血後に気分が悪くなったり、貧血を起こしたことはありますか?」
「いえ、えっと、採血された記憶がないので・・・・・・」
「じゃあ、アルコールでかぶれたりするかもわからないですよね」
 看護師は少し困ったように言うと、手早く仕度を続けた。
 大きな注射器の先にチューブが取り付けられ、その先に針が付いているのをサチは不思議そうに見つめた。
「あまり、じっと見ていない方がよいかもしれないわ。慣れてないと、気分が悪くなる方もいらっしゃるから」
 看護士の言葉に、サチは慣れている人なんて、この世にいるのだろうかと思いながら、看護士の指示に従い手をぎゅっと握って目をそらした。
 チクリというよりも、鋭い刃物で身を切り裂くような痛みが腕に走り、思わず腕の方に視線を投げると、赤黒い液体がチューブの中を通り注射器の中に吸い込まれていった。
「これが、私の血? 黒い・・・・・・」
 サチが呟くと、看護士がクスリと笑った。
「みんなこういう色ですよ。酸素を多く含んだ血液は黒っぽく見えるんです。指に怪我をした時とか目にする明るい赤い色の血は、酸素をあまり含んでいない、既に酸素を運び終わった血なんですよ」
 分かりやすく、優しく説明され、サチはホッと安堵の息を漏らした。
 赤黒い液体を見た瞬間、自分の中の穢い物がすべて血に溶け込んで、体の中を流れているような、そんな錯覚に襲われたからだった。
「さあ、針を抜きますよ」
 再び鋭い痛みがして、針が刺さっていた場所を看護士の指先がしっかりと圧迫していた。
「じゃあ、ここを自分で押さえて貰えますか?」
 サチが自分で押さえ始めると、看護士は手早く注射器から細い蓋付きの入れ物数本に血液をいれた。最後に、採決に使用したチューブや針を片付け、サチが圧迫している部分に丸い絆創膏のような物を張り付けた。
「十分くらい、このままでお願いします。あとは、尿検査なので、このカップに尿を取って下さい」
「ありがとうございます」
 サチは礼を言い、検尿用のカップを片手に処置室を出た。

「御手洗いは、こちらになります」
 サチが出てくるのを待っていたと言うのがはっきりわかるタイミングで受付にいた女性がサチにトイレの場所を教え、更にカップの置き場所、どれくらいのみ尿をどのタイミングで採取するかなど、細かく丁寧に教えてくれた。
「ありがとうございます」
 サチはお礼を言うと個室に入った。
「みんな、カップをもらって、トイレに座ったらしたくなるのかな・・・・・・」
 尿意を感じないサチはしばらく座り続けたが、あまりにサチが出て行かないからか、ノックの音がして『大丈夫ですか?』という、サチの安否を確認する声が聞こえてきた。
「あ、大丈夫です。なんか、出なくて・・・・・・」
 サチが正直に言うと、女性は医師に相談してくると言って静かになった。
「お茶をたっぷり飲んでくればよかったな・・・・・・」
 サチが起きてからとった水分は、殆どが定食屋のお昼時間の戦争で汗となって消えてしまった気がした。それに、賄いも今日は丼物で水分のお茶をのんびり飲んでいる暇もなくサチは午後の診察に間に合うように戻ってきたのだった。
 それでもサチが頑張っていると、再びノックの音がした。
『先生から、難しいようだったら次回でも大丈夫ですとのことでした』
 女性の言葉に、サチはギブアップすると立ち上がって衣服を整えた。
 サチが姿を見せると、女性は『先生がお待ちですから』と言ってサチを再び診察室に通した。


「中村さん、尿検査は、次回、血液検査の結果をご説明する日に行いますので、その日は多めに水分を取って来て下さい」
 医師は優しい声で言うと、サチの様子を伺った。
「あの、検査の結果って、今日は出ないんですか?」
 サチの問いに、医師は申し訳なさそうに答えた。
「うちは、検査機関に依頼して検査結果を貰っているので、その日のうちに結果がでる大病院とは違うので、何回も来ていただかないといけなくてすいません」
「あ、いえ。大丈夫です。あの、いつ頃なら結果はでるんですか?」
「おおよそ、一週間で皆さんにはお願いしていますが、中村さんの症状はちょっと心配な点もありますから、結果が出たら確認して、何かあったらお電話しますので、受付に連絡の付く電話番号を教えるようにしていただけますか」
「はい、わかりました」
「では、今日はこれでおしまいです」
「ありがとうございました」
 サチは診察室を出て、待合室で会計の順番を待った。
 血液検査という物が何千円もかかるものだと、サチは改めて実感しながら、お金を払って病院を出た。

☆☆☆

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