君のいた時を愛して~ I Love You ~
三十三
 サチが理学療法を初め、家事をこなすのが難しくなってきたので、俺は会社に頼んでシフトではなく日勤に固定してもらい、通院に付き添うときだけ遅番になるようにしてもらった。
 突然の変更に他のメンバーからの反発は大きかったが、マネージャーからサチが白血病の治療をしていることが伝えられると、社内の雰囲気は一転した。
 男性陣の態度に余り変化はなかったが、女性陣の対応は一気に好転した。
 たぶん、同じ年代の男からすれば、会社に家庭のことを持ち込んだ俺があまちゃんに見えたことは間違いなかったが、一緒に働く女性陣は家族のために勤務の変更を申し出た俺の勇気に賞賛の声に近いものがあがった。
 ただ、上司からは、これ以上の特別対応は難しいので、所定時間の勤務が連続して難しくなるようであれば、このまま雇い続けることは難しいとだけ言われた。

 理学療法を初め、薬を何種類も飲み始めたサチは、ただでさえ色が白かったのに、病院に行くとき以外部屋を出ないから、ますます白くなっていった。
 そう、以前なら、日中の日の当たる時間に毎日、大将の店と部屋を往復して居たのに、今のサチは部屋でじっとして過ごすことが多くなっていた。

「ごめんね、コータ。明日はちゃんと洗濯するから」
 会社に着ていくワイシャツを洗う予定だったサチは、結局、具合が悪くて寝て過ごしたようだった。
「大丈夫だよ。一日くらい、古いのを着ていくよ」
 俺は言うと、古着をしまってある段ボール箱からヨレヨレの古いワイシャツを取り出した。
 このワイシャツは、雇い止めにあった後、就職するために駆けずり回った時に来ていたもので、実は袖口にほつれができてしまっているのだが、捨てるのがもったいないからと、段ボールに突っ込んであったものだ。

「ごめんね、コータ」
 ヨレヨレのシャツを見てサチがまた謝った。
「大丈夫だよ。着れるから」
 幸か不幸か、結婚後もしっかり引き締め生活をしている俺の場合、幸せ太りなどという伏兵はいないから、少し黄ばみかけた古いシャツも余裕で切ることができる。
「まだ、そんなに遅くないから、洗濯機まわしてくるよ」
 俺が洗濯物を持ち上げると、サチがゆっくりと立ち上がった。
「あたしが行ってくる」
「いいよ、サチ。無理しなくて」
 俺は言うと、サチを座らせて部屋を出た。


 階段を下りて洗濯機の置いてある部屋に入ると、俺は色物の含まれていない白物ばかりの洗濯物を洗濯機に入れた。
 洗剤を入れて洗濯機を回し始めるとすぐ、階下の住人である女性が姿を現した。
「今から洗濯かい?」
 確かに、洗い終わるのは使用禁止時間にかかるかもしれないタイミングだ。
「すいません」
 俺が頭を下げると、女性は表情を変えた。
「あんた、さっちゃんの旦那じゃないか。さっちゃんに変なことさせてるんじゃないだろうね?」
 想定外の問いに、俺は首をかしげた。
「顔色は悪いし、部屋からも出てこないし。第一、仕事も辞めちまったんだろう?」
 いかにも、俺がサチに何かをしていると言わんばかりの言葉に、俺は『病気なんです』と言わざるを得なくなった。
「病気って、悪いもんじゃないんだろうね?」
 女性は俺に掴みかかってきた。
 名前すら知らない女性の行動に、俺は驚いて一歩下がった。すると、女性はさらに一歩、俺の方へと進んできた。
「あの・・・・・・」
 俺が口を開いたのとほぼ同時に、サチの『おばさん』という声が聞こえた。
 女性は俺のことなど忘れたかのように放り出し、声のした方を振り向いた。
「さっちゃん」
 女性は折れそうに細いサチの体をぎゅっと抱きしめた。
「みずくさいじゃないかい。具合が悪いなら言っておくれよ。洗濯や買い物なら、いつでも行ってあげるからさ」
「ありがとう。おばさん」
 サチは嬉しそうに答えた。
「すぐに良くなるんだろう?」
 女性の問いに、サチの顔が表情をなくした。
「さっちゃん?」
 女性の問いに、サチは俯いた。
「白血病だって・・・・・・」
 俺の目にもわかるほど、女性の体が硬直した。
「なんだって? それって、血液の癌って言われてる病気だろう?」
 言ってしまってから、女性は慌てて両手で口を覆った。
 俺が聞きたくてもサチの前で口にすることが憚られ、中嶋先生にも訊けなかった言葉を女性は口にした。
「大丈夫だよ。ちゃんと病院に行って、理学療法っていうのをしてるし、お薬も飲んでるから」
 サチは再び笑顔を取り戻していった。
 でも、その笑顔が女性を安心させるためのもので、サチの本当の笑顔でないことを俺は知っている。サチの体は薬と理学療法のせいで完全に疲弊していて、起きているのも怠いくらいだということを俺は知っていた。
「引き止めちゃってごめんよ。洗濯もののことなら、心配いらないから。明日からはあたしが手伝ってあげるからね」
 女性は言うと、俺の方に向き直った。
「あんた、さっちゃんのこと、頼んだよ」
「はい」
 俺の返事を聞くと、女性は安心したように俺とサチを置いて出て行った。
「まいったな。富田のおばさんに知られたら、このアパートの人全員に知られちゃうね」
 サチは言うと、ぐらりと体が傾いだ。
 俺は慌ててサチの体を抱きとめた。
「ごめんね、コータ。全然、具合良くなれなくて」
 サチの言葉に、俺は涙が出そうになった。
「今だけだよ。すぐに良くなる。先生も、そう言っていたじゃないか」
 俺は言うと、前よりも軽くなったサチの体を抱き上げて階段を上った。

☆☆☆

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